『破戒』にみる「人権」ーー藤村と晶子を通してーー
 
関西大学文学部講師 上杉 聰

  プロフィール
上杉 聰(うえすぎ さとし)
関西大学文学部講師
1947年 岡山県生まれ
1970年 上智大学文学部哲学科を卒業し、高校教師となる
1975年 高校教師を辞めて大阪の被差別部落に居住し部落史研究を始める
1981年 関西大学文学部で<部落史研究>を担当し現在に至る
著書 『明治維新と賤民廃止令』
(解放出版社、1990年)
『天皇制と部落差別』
(三一新書、1990年)
『部落を襲った一揆』
(解放出版社、1993年)
『部落史がかわる』
(三一書房、1997年)
『よみがえる部落史』
(社会思想社、2000年)他多数

上杉 聰
「小諸なる古城のほとり」と藤村が歌った旧小諸城址にある藤村記念館前で筆者。

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 日本における自然主義文学の出発を告げる島崎藤村の小説『破戒』は、この国の近代文学史をその前と後に大きく二分する、との高い評価を受けてきた。一九〇六年(明治39)に発刊されて以来、超ロングセラーとなって今も息ながく読まれつづけている。『破戒』が出版された当時、文筆家でこれに注目しなかった者は稀といってよい。
たとえば、夏目漱石は…
 破戒読了。明治の小説として後世に伝うべき名篇なり。金色夜叉の如きは二、三十年の後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多く小説を読まず。しかし、明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思うと、友人に書き送った。漱石がこれを書いた時、彼は自分の小説「吾輩は猫である」を世に出したばかりであった。むしろ、そちらの評判こそが気になる時期に、他人の書いたものを高く評価する彼もスゴイと思う。
 ところで『破戒』は、人権(同和)問題を正面から取り上げたことでも、人々の関心を強く引きつけた。ご存じのようにこの小説は、主人公の瀬川丑松が、父から与えられた被差別部落の出身を「隠せ!」という戒めを破り、「私は穢多です」と、告白するまでの内面の葛藤を克明に描いたもの。同和問題小説の側面をもったことで『破戒』は、数奇な運命をたどることになった(以下、別掲の年譜を参照)。


[ 水平社の対応 ]
 被差別部落の人々自らが差別の撤廃に立ち上がり、水平社を結成したのは一九二二年(大正11)のことである。それより一六年も先だって書かれた『破戒』は、当事者である部落の人々から、後にさまざまな「評価」を受けることになった。
 関東水平社は一九二九年、この小説の結末部分で丑松がテキサスに行こうとしたことは「逃避」である、と絶版の要求を掲げた。しかし、それに疑問をはさむ関東水平社の幹部もいて、彼らは「部落解放につくすところもあり絶版にまですることはない」と、藤村に直接に会って励ますなどしている。新潮社はその後、独自の判断でこれを絶版にした。
 その九年後の一九三八年、全国水平社は第一五回大会において、書記局長の井元鱗之が、「諸君のほとんどの人が私と同じように島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつつ読まれたことがあると思う」と語りかけ、『破戒』は差別の撤廃に資する小説であると、再版を支持する決議を提案した。これが満場一致で可決され、その結果、翌年『定本版藤村文庫』に収められることになった。その際、「穢多」を「新平民」と改めるなど、多数の改訂が加えられた。


 しかし、戦後になると筑摩書房が、独自の判断で再び初版本を刊行することになった。戦前の水平社を受け継いだ部落解放全国委員会はその際、声明を出し、かつて改訂版の作成を水平社が支持したことを「重大な誤謬であった」と自らの批判を行いつつ、初版本の刊行を容認、しかし「差別小説の域を決して脱していない」と評することも忘れなかった。
 その後、筑摩書房を追いかけるように各社が初版本に切り替え、今私たちが書店で買うことのできる『破戒』は、すべて初版本となっている。とはいえ、それらの「あとがき」や「解説」を読むと、上で述べた『破戒』の変転のありさまをそれぞれに伝えていて、興味深いものとなっている。
 『破戒』に対する見方は、部落の人々の間でさえ対立したし、今もって評価は定まっていないといってよい。今日、部落解放運動の中で「丑松」と呼べば、自分の出身を隠して運動の立場に立とうとしない人の代名詞であり、「寝た子を起こすな」論とともに、常に批判の対象となってきた。だが、もういっぽうで『破戒』は、同和教育の現場で、今も高校生や大学生向けの良質な啓発教材として利用され、効果をあげつづけているーー『破戒』を、私たちはどう評価すればよいのだろうか?
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[ 評論家の見方]
 同書が出版された直後の『破戒』評を読むとき、奇妙なことに気付く。文芸評論家の長谷川天渓は、次のように批判する。

今日、この偏見(部落差別のことー引用者)は、わが日本になお存すること事実なりといえども、しかもそは明らかに偏見として承認せらる。維新後の文明進歩は少なくともこの偏見を知的に打破したり。情においては新平民を嫌うといえども、知の上にては決してこれを排斥せざるは今日の社会なり。しかもこの偏見が(小説『破戒』の中心的なー引用者)材料となれり。これ狭隘また地方的(な素材ー引用者)にして、吾人がこの作に対して、無限の悲痛感を起こさざる一因なり。

 上記は、『破戒』刊行のわずか二ヶ月後に書かれていることに注目したい。「維新後」とあるのは一八七一年(明治4)に「穢多・非人」などの制度が廃止(「解放令」)されて以降の変化を意味している。それからわずか三五年しか経っていない時期に『破戒』は出版されたことになる。そして長谷川は、「維新後の文明進歩は、少なくともこの偏見を知的に打破した」のであって、そうした解決済みの問題を小説の主要なモチーフにしたことを、理解に苦しむと批判しているのだ。
 同様の非難は、柳田国男が「小説としては十分私は身にしみて感じなかった…というのは…新平民と普通の平民との間の闘争(差別とそれへの抗議ー引用者)があまり激し過ぎるように思う…よほど事実から遠い」としていることや、徳田秋江の「自分の本国ー岡山県ー地方の状態を標準として観察するに、普通人が穢多に対する嫌悪の念はこれほど盛んではない」などにもみられる。多くの『破戒』批判は、当時、こうした観点からなされたのである。
 今から数えて一〇〇年近く前(正確には九六年前)になろうとする『破戒』が刊行された当時、すでに「部落差別などもうない」、あるいは「問題にならない」という考えがあったことになる。水平社が起こったのはその後だし、今日にいたる同和行政の基本を決めた同和対策審議会答申が出されたのも、それから約六〇年後である。私たち日本人は、気の遠くなるような長い時間を、「差別はもうない」という言説のもとで生きてきたことになる。

次回につづく


『破戒』の年譜
 1904〜05年 (明治37〜38) 藤村は長野で執筆を開始、のち東京へ移住し完成
 1906年 (明治39) 3月25日  初版本を自費出版。その後、新潮社から刊行
 1929年 (昭和4)     関東水平社の批判により『破戒』は絶版となる
 1939年 (昭和14) 2月20日 全国水平社大会の支持決議を受け改訂版が刊行される
 1953年 (昭和28) 8月20日 筑摩書房により初版本が復元刊行される