江戸の部落の実業家たちその1)
 
関西大学文学部講師 上杉 聰

  プロフィール
上杉 聰(うえすぎ さとし)
関西大学文学部講師
1947年 岡山県生まれ
1970年 上智大学文学部哲学科を卒業し、高校教師となる
1975年 高校教師を辞めて大阪の被差別部落に居住し部落史研究を始める
1981年 関西大学文学部で<部落史研究>を担当し現在に至る
著書 『明治維新と賤民廃止令』
(解放出版社、1990年)
『天皇制と部落差別』
(三一新書、1990年)
『部落を襲った一揆』
(解放出版社、1993年)
『部落史がかわる』
(三一書房、1997年)
『よみがえる部落史』
(社会思想社、2000年)他多数
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▲行灯(浮世絵八華1春信:株式会社 平凡社 発行)

 江戸の町は、部落の人たちの産業活動がなければ動かなかった、と言えば大げさに聞こえるかもしれない。だが、もし現代に「電灯」がなかったら、夜の華やかな生活は成り立たないだろうし、「時計」がなければ時刻表にしたがう電車も動けない。今の「電灯」や「時計」にあたるのが、江戸時代の部落の産業だった。
  

 江戸の夜を照らした明かり

  江戸の夜は長い。月のない夜ともなれば、果てしなく広がる漆黒の闇だけが世界を隅々まで支配した。暗さに慣れた人々の眼は、小さな明かりで物を見ることができた。だから明治になってさえランプの明かりが使われるようになっても、「ほたるのひかり、まどのゆき、書よむ…」、一八八一(明治十四)年、の歌が現実感をもっていた。

 江戸時代、夜の室内は「灯台」が照らした。皿に油を注いで明かりを点す。これを台に載せると「灯台」になった。さらに木枠に紙を張って覆うと「行灯」である。

 「灯台もと暗し」という譬えは、「手近な事情がかえって分かりにくい」という意味だが、船の航行を助ける明かりの「灯台」と文字が同じであるため、近代になって岬に立つ「灯台」の様子をもとに作られたという間違った解説がある。だが、この言い回しは江戸時代からあって、人々の長く暗い夜の生活が生んだ言葉なのだ。

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▲灯心売り(弾左衛門とその時代:塩見鮮一郎著・批評社発行)

 ところで、この油に浸して灯を点す白く細い紐が何でできているかご存じだろうか? 木綿の糸などではない。藺草なのである。あの畳表にも使われる丸細く長い茎の草である。これを蒸して皮をむくと中からスポンジ状の白い芯が出てくる。「なかご」と呼ばれ、乾燥させると「灯心」になった。かつて「灯心草」といえば、藺草のことであった。

 本来なら「灯芯」と書くべきところを「灯心」と書いた。油に浸すと吸引力が強く、大きな明かりを作ってくれた。もし野外で使うなら、風に耐えて大きな炎にするため糸で括って何本も束ねた。蝋の中に入れれば蝋燭の芯になった。江戸時代の人々にとって、まさに「灯心」がなければ、「夜も日も明けなかった」のである。

 この「灯心」を藺草から加工し、江戸の町で販売したのが、ほかならぬ部落(穢多)の人たちだった。お百姓から藺草を買いつけ、灯心へと加工し、販売するまでのすべてを独占することができた。江戸の町の警察や牢番などに部落の人々が働く賃金を捻出するためだった。町なかで「穢多」の老婆がこれを売る姿が絵に残されている(別掲)。

 独占権は、蝋燭に使われる「灯心」のみ部落からのちに外されることになるが、それ以外、江戸の夜の明かりがすべて、部落の人々に支えられていたことは意外と知られていない。上質な「灯心」ならば、穢多の頭である「弾左衛門」から直接に江戸城へ上納されもした。お城から漏れてくる「ほの明かり」は、部落の人々の営みの成果だったのである。

弾左衛門(だんざえもん)
近世の関八州(水戸領、日光神領など一部を除く)とその周辺地域の被差別民衆を統括した頭で、代々「弾左衛門」を襲名し、近世を通じて十三代を数える。正式名は【矢野弾左衛門】。

  

 時の太鼓

  有名な落語に「時そば」がある。江戸の夜を流す屋台のそば屋で一人の客が、時刻にからめて代金を誤魔化した。それを見た男が「これァおもしろいや、おれもやってやろう」と、次の晩に真似をした。しかし時刻を考えないで一文銭を「八つ」まで数えたところで「今なん刻だい?」
と聞いたものだから、そば屋に
「へぇ、四刻で」
と答えられ、
「いつつ、むっつ、ななつ…」
とやって損をする間抜けな噺である。

 江戸に暮らす者なら誰しも、今のように腕時計がなくても、だいたいの時刻を知っていたことがこの落語の時代背景になっている。

 江戸の市民がどうやって時刻を知ったかといえば「時の鐘」によった。昼夜を問わず約二時間おきに鳴り響いて人々に時刻を知らせた。ただ鐘の音は、有名な芝増上寺の鐘が江戸で一番大きかったが、それでも約四キロ四方しか届かない。広い江戸中に鐘の音を行き渡らせるためには、あちこちに一〇箇所以上の鐘撞堂を建て、次から次ぎへと撞き継いで、まるで波紋のように江戸の隅々にまで鐘の音を行きわたらせたのである。

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城内にあった「時の太鼓」渡辺・西浜・浪速―浪速部落の歴史:浪速部落の歴史編纂委員会発行
 では、その最初の一打はどこが打つのかといえば、江戸城にある「時の太鼓」だった。大きな時計が城に置かれてあり、この時計係の指示で太鼓を打った。江戸城内の諸行事や城門の開閉は、すべてこの音に合わせた。そのお城に近い日本橋本石町の「時の鐘」の撞き手は、江戸城から漏れ聞こえる太鼓の音を聞くや、最初の鐘の音を大きく打ち鳴らしたのである。

 ところで、この「時の太鼓」、誰が作っていたかというと、これも部落の人々だった。穢多頭「弾左衛門」は、配下の職人が仕上げた最上級の太鼓を、裃を着けて帯刀し、三人の従者をしたがえ、江戸城に届けたものだった。やがて革が痛む頃になると、修繕のため、同じ身なりで彼が引き取り(交換)に行った。当時、全国各地にある部落の太鼓作りたちも、それぞれが近くの城に「時の太鼓」を届けていた。

 和太鼓には良質の革が使われ、かつても今も部落の人々の手で作られている。盆踊りの太鼓はもちろんだが、神社の太鼓も、相撲のふれ太鼓さえ、一つとして部落の人の手にならないものはない。今に残る日本三大太鼓店はすべて部落の中にある。
 太鼓の革は丈夫である。撥で破れることは稀だった。万一撥で破れるようなことがあれば、少なくとも五年くらいは無料で修理する期間をもうけていた。職人の自信に裏づけられた「保証期間」だった。

 お城から聞こえてくる太鼓の音は時間に几帳面で、品質にうるさい日本人の気質を、江戸時代から表していたらしい。