ジェンダーフリーな社会を目指して(その2)
 
東京学芸大学教授 村松 泰子

  プロフィール
経 歴 1944年生まれ、1991年より東京学芸大学教育学部教授。
専 門 社会学、女性学、メディア・コミュニケーション論。
主な社会的活動 1999〜2000年、総理府委託「男女共同参画の視点からの公的機関の広報ガイドラインに関する調査研究会」座長。
最近の主な編著書 「エンパワーメントの女性学」(有斐閣)「メディアがつくるジェンダー 日独の男女・家族像を読みとく」(新曜社)など。
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 ステレオタイプ

 メディアのつくるジェンダーの第一は、女性・男性の役割を限定し、型にはまったステレオタイプ的に描き、またいわゆる「女らしさ」「男らしさ」を強調することである。

 とくに女性が型にはめられやすく、役割にしても、年代にしても、性格にしても描かれ方の幅が狭い傾向がある。

 多くの人が見聞きするテレビCMは、もともと日常生活に密着した食品や生活用品、あるいは化粧品などの宣伝が多い。その中で、家事担当者はまだまだ女性である。

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 近年は男性が洗濯や買い物をする姿を描くCMも散見され、少しずつ変化しているとはいえ、昼間のCMを見ると、家事担当者は圧倒的に女性である。ごていねいに、子どもが出てきても、家事を手伝うのは女の子で、小さいときから将来の主婦として位置づけられている。

 ちなみに、衣服を汚して洗濯物をつくり出す役は男の子である。

 また、女性が食事を用意するのは、夫や子どもなど家族のためであり、たまに見られる男性の料理は友人のためだったりする。

 男性が家族をケアする姿は少なく、たとえば薬の広告で、病気の夫は妻に心配してもらうが、女性を心配するのは子どもだけで、夫が世話をすることはあまりない。

 飲み物の広告も多く、最近、ようやくビールを女性が飲むCMが出始めているが、日本では、飲み物まで女性用と男性用と使い分けられているようだ。CMのなかでは、なぜかコーヒーは男性が飲み、紅茶は女性が飲むものとされている。コーヒーでもインスタントや缶コーヒーは男性が飲むが、飲むのに少しでも手をかける必要のある簡易ドリップ式のコーヒーになると女性が淹れるなど、性別役割分業が徹底している。

 ちなみに、アメリカでは、男性が女性のためにコーヒーを淹れてあげるというコンセプトのCMを見かけるようだ。

 CMのなかの男性は、何かを「する」存在であることが多い。車の広告なら運転をする人であり、ビールなら飲む人である。

 あるいは、出演タレントがスポーツ選手ならそのスポーツやたくましさ、俳優なら演技力など、その人が何をするかということが、広告の商品や物語と密接な関係をもっている場合が多い。
 男性が中身・人格で勝負するのとは対照的に、家庭役割以外の女性は、商品とは関係なく、笑顔を見せる役割か、美しい存在として「いる」ことに意味がある。笑顔の魅力や、笑顔で人を癒したり、人目を引いたりするための存在なのだ。だから、広告やポスターへの男性の出演者は有名人が多い。「誰」が登場するかに意味があるのである。

 女性ももちろん、有名人が登場するが、それは美しい人、外見が魅力的な人としての場合が多い。

 男性の登場人物の幅が広く、女性は若い年代に偏っているのも、同じ理由だ。

 女性と男性の表現上のステレオタイプの別の例として、イラストなどの色づかいがある。人物でも、グラフなどの表示でも、女性をあらわすには赤・ピンクなどの暖色、男性は青・緑などの寒色が使われやすい。

 現実の人間の服装の色づかいは、近年、そうした女性・男性の区別は相当薄れてきたから映像や写真ではそうでもないのに、イラストや創られたイメージの世界になると、色の使い分けが目につくようだ。

 女性の客体化

 メディアのなかの女性が、何かを「する」のではなく、美しい存在として「いる」ことに意味があるということは、女性が男性に眺められる存在とされていることを意味する。余計なことは言わずに、男性の目を楽しませてくれればいいというわけだ。
このように、男性が主体として登場するのに対し、女性は客体として描かれやすい。

 だから、視覚メディアのテレビや雑誌、あるいはポスターなどには、若い女性が氾濫し、内面は問われず、女性は精神的にも未熟でいい、もしくは未熟なほうがいいとさえされる。そして、とくに男性にとっての女性の身体の魅力を強調するために、なるべく女性の衣服をはぎとって水着姿やレオタード姿などを見せることが横行する。そうした肢体やヌード自体が主題として扱われるか、広告なら商品とは無関係に登場させられる。以前、銀行の広告に女性の水着姿が氾濫して、女性たちからクレームがついたことがあるが、最近は、商品と無関係と言われないように、あまり必然性がないのに設定を海辺やプールサイドにしたりしてまで、そうした姿を登場させるものもあるようだ。

 このように、女性は人格をもった個人としてよりも、外見の美しさに意味があるとして、モノのように扱われる。その極致として、身体の一部を、広告紙面やテレビの画面で切りとって登場させるというものもある。唇だけ、足だけといった描き方だ。
男性は一人格として扱われ、このような身体の切り取り方はほとんどされない。

 女性の軽視


 
女性を客体かした広告

 商品広告は、女性を消費者として想定するものも多いし、また、前述のように女性を飾りとして登場させることもあるので、比較的、女性がよく登場する。ただ、企業や組織の広報資料や案内パンフレットなどでは、女性の存在を忘れているのではと首をかしげるようなものがある。

 イラストなどで人物が描かれるときに、たとえば働く人やサービスをする側は男性ばかりで、女性はごく少数しか登場しなかったり、もっぱらサービスを受ける側や消費者としてしか描かれなかったりすることがある。

 これは、人間をイメージしたときに、まず男性を思い描いてしまい、女性はつけたしのように、あるいは彩りとして少しはいなくては、というような発想から生じていることではないだろうか。さらに言えば、どうも人間を代表するのは男性で、男性は女性を含む人間を代表するが、女性はあくまで女性で、男性を含む人間の代表にはならないという意識が働くのかもしれない。

 ジェンダーに敏感になるために

 メディア表現に見られる女性・男性像を偏りのないものにしていくためには、その発信に携わる人も、それを見たり聞いたりする人々も、まずジェンダーに敏感になることが必要だ。日常生活の中で、例示したようなジェンダーの視点から意識的にメディアを見るだけでも気づくことはあるだろう。
さらには多数のメディア表現を集めて点検する作業をすることで発見・再認識することも大事である。そうした実践の機会をつくったり、それによって自分たちのガイドラインをつくるなども有意義だろう。

 ジェンダーに敏感になるためには現実の日常環境が大事だし、現実を変えていくことこそが目標である。広報活動を含め企業自体を女性・男性を枠にはめない男女平等な場にしていくことが必要なのは、もちろんである。