ボランティア活動が注目される理由
このボランティア活動が大きな注目を集めることになったのは、やはり阪神・淡路大震災でした。
震災や日本海重油流出事故の経験から「災害時にはボランティアが活躍する」ことは、今や常識となりました。そして、そうしたボランティアの活躍を際立たせる役回りとなるのが行政の動きです。ボランティアに比べ、全般的に対応が後手後手となりがちだからです。
ただし、その事情を冷静に見ていくと、災害時にボランティア活動などの民間活動が行政を上回る機能性を発揮するのは、それなりの理由があることが分かります。そして、自発的な取り組みには、行政の限界を超える面があることも見えてきます。
行政は「平等」が大原則です。ところが大災害発生という非常時、この平等原理が行政の動きを止めてしまいます。というのも、平等に動くためにはまず「全体」の把握が不可欠です。仮に5万人の被災者が発生しても、把握できた3万人分にしか避難用具を提供しなかったら、残りの2万人には大変”不公平“な対応となります。ところが、災害はその規模が大きければ大きいほど、この「全体の把握」が困難です。阪神・淡路大震災の際、最初に死者が出たことが報じられたのは地震から2時間20分も後のことでした。その後、規模の大きさは徐々にしか分からず、死者が5000人を超えることがわかるまでに、実に8日を要しました。
この「全体」の把握が難しい中では、事実上”公平“な対応は不可能です。ところが行政には、こうした際にもやはり”公平さ“が要求されます。
というのも、例えば「水汲みを手伝ってくれ」という依頼が行政窓口に寄せられたとしても、そこで担当者はすぐにヘルパーを派遣することはできません。その依頼者が住民「全体」の中でどの程度の優先度があるかがわからないまま、即座にヘルパーを派遣すれば「早い者勝ち」になってしまうからです。そこで、依頼を一旦受け付け「全体」の状況が把握できた時点で…ということにならざるを得なかったのです。このような事情から行政の対応は、いわば後手後手の対応にならざるを得ませんでした。つまり災害時、行政は「全体の奉仕者」として動いたがゆえに、機動的にはなれなかったのです。
ところがボランティアには、この「全体による拘束」はありません。それこそ水汲みで困っている人がいたなら、「私が手伝いましょう」と言えば良いのです。自分なりに気づき、自らの責任で行動する意志さえあれば、どのような課題にどんなペースでどの程度関わるかは自由です。だから「全体」の状況が把握できていなくても、ともかく目の前の課題に機動的に取り組んでいくことが可能となったのです。
行政の限界を超える多様性、開拓性
ボランティアの長所は、この機動性にとどまりません。人がそれぞれの創意で、それぞれが気づく課題に、それぞれの得意な方法で対処するため、その活動は、総体として、とても多彩になります。
たとえば、震災の際、アトピー症の子ども達を抱える親達で作る「地球の子・アトピッコの会」は、電話も通じないという混乱のただ中にあった一月十七日のうちに、全国の支部で連絡を取り合い、被災地の市や区ごとに病院などの拠点を決め、アトピー症の人たちにとって負担のかからない食
事を届けるネットワークを作り上げました。
一般の人々がアトピー症の方に思いをはせたのは新聞報道などがなされた二月以降でしょう。それまでも、救援物資のお弁当や炊き出しを通じて、善意にあふれた食事が提供されていました。しかし、その食事の中に入っている白米や卵で身体中にジンマシンを作ってしまう子ども達のことに気づく人たちはほとんどいませんでした(少なくとも私は気づきませんでした)。しかし、アトピー症の子どもを持つ親は、すぐに気づいたのです。
このようなことが、そこここで起こりました。獣医さんらがペットの世話に乗り出した。自転車屋さんがしばらく店を休んで現地に出張。パンクが絶えなかった自転車の修理ボランティアとして活躍した。東南アジアとの貿易に取り組む商社マンが神戸市長田区などに居住者の多いベトナム人への情報提供に走り回った…。挙げだしたらキリがありません。このように自発的な活動は、個々人の関心やこだわりが起点になったことから、実に多彩な活動を展開できたのです。
しかしこれも、行政には難しい作業です。行政は、住民全体の少なくとも過半数以上の人が賛成しないことはできないからです。ここでも行政は「全体の奉仕者」という壁に直面することになります。
さらに自発的な活動は自己責任で行動しますから、開拓的な方法に果敢に挑戦することも容易です。他者の合意がなくても自由に活動できるわけで、実際、現在、制度として展開されている行政サービスの中にも、もとはと言えば市民の試行錯誤の中から生まれたものが少なくありません。
それに、公平さを優先しなければならないわけではないからこそ、ボランティアの取り組みには「温かさ」が生まれます。公平ということはとても良いことのように思いがちですが、それは一方で、一律で、画一的な対応になりがちです。しかしボランティアは「他ならぬあなただけに」という関わりができます。画一的な対応を排し、個々に応じたきめ細かい対応をすることが、とても容易なのです。
このようにボランティアは「行政の穴埋め」的な存在にとどまらない多くの可能性を秘めた存在です。日本政府の提案で国連が今年2001年を「ボランティア国際年」とすることになったのも、二一世紀の社会の課題を行政だけで解決することは難しく、ボランティアなどの民間による公共活動の活性化が不可欠だと考えられるようになったからです。
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