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| たけうち・りょう NKK人権啓発室長、東京人権啓発企業連絡 |
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ある新聞記事が目にとまった。広島の県立高校で、卒業式の君が代斉唱の際、教諭の一人が着席のままだったのして校長が翌日の職員朝礼で、「辞表を書いてもらいたい」と発言、本人を呼び出して辞表か異動願いを提出するよう促していたという(2001年3月10日朝日新聞)。 この記事は私に、今ふりかえっても自分の高校生活を限りなく豊にしてくれたきっかけになったある出来事を思い起こさせた。30数年前の1969年、この高校で行われた卒業式で「事件」は起きた。卒業生総代の生徒が壇上で校長から卒業証書を受け取ると、一番上にあった自分の証書を破り捨てたのである。そして彼女は「今からなぜ、自分がこんなことをしたのかお話したい」と語った。しかし校長は彼女に式を先に進めようと話し、彼女の発言を制した。当時2年生の私は在校生の一人としてこの場に居合わせた。生徒会役員でもあった私たちは、その日の午後緊急生徒集会を開催し、彼女の真意を聞く場を持った。 ベトナム戦争、キング牧師暗殺、水俣病の原因特定、イタイイタイ病提訴などの社会情況があり、さらに全国の大学でいわゆる学園紛争が燎原の火のごとく 燃え広がっていた頃だ。東大全学共闘会議による安田講堂の封鎖とそれに対する機動隊導入、封鎖解除が新聞紙上をにぎわせたのはこの卒業式の直前だった。このような世相のなかで彼女はただただ受験勉強にあけくれていた自分自身や級友の姿に「自分の高校生活とは何だったのか。社会で今まさに起こっている様々な事象と自分は如何に関わろうとするのか」を自らに厳しく問うたのである。そして彼女は結論として、「自分は今を生きていない、未だ高校生活を卒業できない」と考えたのである。それが自分の卒業証書を破るという行為に結びついた。少なくとも、私はそう理解した。 それから3年生になった私たちがとった行動は、高校生活の振り返り、学校生活の中にある規律、校則の見直し検討、自分たちの卒業式を自分たちで演出しようということだった。受験を控えた3年生は通常生徒会活動から退くものだが、私たちは敢えて生徒会活動をつづけた。連日、卒業式のあり方を考える中から「日の丸」「君が代」を論議した。教師たちからは「『仰げば尊し』を歌わんでくれ」などという注文がついたりした。結果、「日の丸」も「君が代」も無い、その代わりに「友よ」と「今日の日はさようなら」という歌とともに私たち自身の卒業式が行われた。式典のあと、これも私たちの発案の立食パーティーを校庭で開き、1年間私たちの活動を見守ってくれた校長を私たちは高々と胴上げした。校長はお尻をさすりながら、にこやかに笑っているようだった。校長が痔の手術をした直後だったことはあとから聞いた話だ。高校3年生時、このようなことをしていた私たちグループは全員が大学受験に失敗し、浪人した。 現在、全国的に「日の丸」「君が代」の実施強制の動きがある中、広島県教育委員会がその反動性を強めている。職務命令と現場の声に板ばさみになった校長の悲報もあった。30数年前の私たちの論議や卒業式はさすがに風化したのだろう。後輩生徒にも教師にも何の影響ももたらさず、何も残せなかった。 当時私たちが学んだことは、目の前の社会的な事象から目をそらすことなく、自分との関わりを見つめること、そして自分なりの意見をもつこと、周りへの同調でなく、強制されるのでもなく、自分で決めること、選ぶことの大切さだったと想う。 このことは企業の人権担当という今の私にとっても、大きな示唆を与えてくれている。ある企業の担当者はこの自分の考えることの大切さを次の一言で指摘した。「普遍的価値の人権っていうけれど、人権を最初(はな)から絶対的な価値って決めてかかったら、自分で考えることにならないんじゃないの?」 人権の普遍性をそのまま語るのは一方的な価値観の提示にすぎないかもしれない。そうではなく、そもそもなぜ大事な人権が守られないのか、自分にとっては人権って何だろうと考えることこそ大事なのだということだろう。人権啓発は受講者が一人称で考えて自分の想いと行動をひきだす、そのきっかけを提示することである。 それにつけても先日の新聞記事の向こう側に、生徒たち自身の一人ひとりの顔が見えて来ないのが気になっている。 |
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| ヒューマンライツより抜粋 | ||