彫刻家  金城 実

大阪のウチナンチューと差別
金城 実  大阪JR環状線の大正駅を下ると沖縄出身者が多く住んでいる。沖縄料理屋や呑み屋が多い。まるで沖縄文化をそのまま再現したものだ。そこでは沖縄語、三味線、空手道場、琉球舞踊研究所などがある。カラオケも琉球民謡が唄われる。犬の鳴く声も何か、ワン、ワン、ワーンワ(私は)と聞こえてくるから不思議だ。

 そこで沖縄出身者が戦前、戦中、戦後と本土社会でどう生きてきたか。筆者著書の『土の笑い』築摩書房出版でも触れているが、そもそも戦前から貯木所のあった川で木を川に浮かしたり、戦後はスクラップ業で、それでも川辺や沼地に杭を打ち込んでバラックの中で生活したのもいたし、ごみ捨て場でスラム化した集落もあった。

 都市計画で大阪市は、同胞を追い出すのに、同じ沖縄人のチンピラ組織を用いたこともある。差別構造の中で権力がつかう手だ。その手はまた、串田病院で沖縄の看護婦が日本語が通じにくいと解雇される事件が起こり、同じ手を用いた。ところがわれわれが沖縄語で対応したので、チンピラは引き下がった。解雇を撤回させ、女性の名誉を回復させたが、優しい沖縄の女性は慰謝料を要求せず、病院の人権差別を認めさせて静かに沖縄へ帰った。

  大阪では集団就職できた青年が殺人事件を起こし、その背後に沖縄人に対する差別があったことが分かる。拘置所で自殺してしまった。ここから生まれたのが沖縄青年による「ガジュマルの会」であり、差別と偏見に打ち勝つために、沖縄の文化である盆踊りエイサー踊りを、大正区の市民グランドで打ってでることにした。筆者が先頭に立って太鼓を打ち、三味線とパーランクー(小太鼓)などを打ち、10数人で舞ったが、沖縄の先輩たちはまるで迷惑そうに、軽蔑のまなざしで見物していた。沖縄文化は恥から解放されていなかった。

 この頃、沖縄では海洋博、さらに皇太子の沖縄での献血運動があった。翌年の1984年に、方言論争が起きた。料理文化と等しく沖縄史は、沖縄の方言は差別と偏見にさらされてきた。戦時中は「沖縄語ヲモッテ談話シアル者スパイトミナシテ処罰スル」と軍規に記述されているからだ。そのために沖縄戦の悲劇は沖縄語でもって多くの被害を受けている。

 平和憲法下にありながら沖縄の新聞投書で「方言は迷惑」「学力の低下に通じる」「非行の原因」など、実に妙なる雲が登場してきた。1985年、東京に飛び火して赤羽の呑み屋五軒に、「沖縄出身者はお断り」という看板が出た。まさに昔の「朝鮮人、琉球人お断り」という看板が出没した時代を思わせた。日本の差別構造が政治的構造だけでなく、文化の基盤である料理やことばにまで及び、人間の生理の分野にまで噛い込んでいく現実からすると、人権の保障などを詠った民主主義が未熟であることを痛感するのである。

アメラジアンの問題
 このことばは新しい。アメリカ人の父とアジア人の母との間から誕生した未来の子である。地上戦の激しかった沖縄では、占領軍による暴力によって犯された女性への犯罪であり、そこから生まれた子もいる。戦後50年余、米軍基地がある限り今も生まれ続けている。

 かつて大学を休学して嘉手納米軍基地で働いたことがある。知花十字路の一角で、筆者のおばさんも米兵と同棲していた。その周辺にはすでに米兵とできた子どもが2〜3人いた。このことについて、筆者の小説『神々の笑い』径書房出版で世に出しているが、筆者にとってどうにかなることではなく、ただこれが沖縄の現実なのだと思い込むだけだった。

 アメラジアンについては私にとって無力であったが、何人かと私のおばさんのような女性たちに関係してこだわり続けていた。そのことが、筆者が小説『ミッチアマヤーおじさん』を書くことになる。それはアメラジアンを考える前に、身内であるおばさんが筆者と同じく島に生まれて、船長だった彼女の父の船が台風で破壊されて、再建するために、小学校6年で学校を辞めて、糸満の漁師町に3年分の前借りで身売りされることになるのだ。

 私が予備校3年、大学8年もかけて浪費している間に、米兵の町で生きのびたおばさんがいとおしいだけでは申し訳なく、つい小説を書くことで、おばさんに人間としての尊厳を少しでも回復できたらと思ったからである。

 差別の構造は貧しさと人権の尊厳もどろどろにしてしまう。米軍基地コザは植民地の毒気の華を開かせているが、それは米兵相手の女たちの搾取と構築された植民地の文化であった。女たちは島から身売り同然にきた女たちであった。このことへの怒り、悲壮観が私の青春の苦悩でもあった。だから日本本土の沖縄に、米軍基地が75%も強制されていることが、差別でなくて何なのかという実感がでてくるのである。まさに米兵への売春作業と基地産業でかろうじて生きのびた沖縄ではなかったか。そのおかげで大学を卒業した者も少なくない。筆者も多かれ少なかれおばさんの恩恵を受けている。彼女には子どもができなかった。

 米兵の子を生んだ母たちは、AmerAsian School in Okinawaを仮設学校として、沖縄県宣野湾市駐労センターで開始した。学校運営は自主的でボランティアで行われている。そこに行きつくまでに、いろいろな風評があったことが「考える会」からうかがえる。日米の軍事政策の結果、女性と子どもたちの人権が侵害されていると訴えたとき、「地元に学校があるのに」とか「ぜいたくだ」「そんなにアメリカ人になりたいのか」とか地方自治体も鈍感であったが、議会への陳情を重ねて県民の理解をうけ、ついに当時の大田知事が渡米した際に、アメリカ政府に直訴することになる。だが米国は沈黙の状態で、他方わが日本政府といえば、これまた無慈悲にも問題にしていないのが現実である。<『もうひとつの沖縄』上里和美著−かもがわ出版(参考)>

 いずれにせよ、安保体制の中での新しい未来なのである。アメラジアンの教育権を考える会は、1998年4月24日、教育目的で次のように提言している。「沖縄県独自の外国人学校は、立派なアメラジアンを育て、在沖の外国人子弟、帰国児童の教育をも含む教育を行い、将来の沖縄の国際化を担う人材育成を目的とする。」とあり、さらに世界的規模で進みつつある国際化と情報化は、経済の分野はもちろん教育の分野でも、従来の価値観にとらわれない異文化に対する柔軟な感覚と理解力を要している。ボーダーレス化に対応し、国境を越えて活躍できる人材を養成することは、沖縄に限らず日本の教育の目指すべき方向であると記している。

 私が味わってきた時代は古くさく、21世紀に踏み込もうとしている今日、彼らの存在は希望の星と心から誇りに思うものである。今年、サミットを迎えてこうした問題が「平和と人権」を沖縄から発信できればと念じている。

 筆者は、1997〜2006年にかけて『沖縄の歴史を刻む巨大レリーフ』(3m×100m)の製作中です。沖縄が悲劇と差別と偏見に色どられた歴史であっても、そこからは人間の誇りが見えてこないのです。したがって、人間の尊厳と誇りを実施するために芸術に力があるか。その道のりを行くものです。みなさん、沖縄に来られるときはアトリエに寄って下さい。泡盛酒と豚足と芋と豆腐で歓迎します。



目次へ