『男女共同参画社会への道』(その2)
評論家・東京家政大学教授 樋口恵子

         

 ときは、高度経済成長の前奏曲が終わって本格的な幕開けを迎え、世の中は豊かさをめざして明るくざわめいていた。女性たは家庭電化の夢の実現に興奮していた。女性たちも高度経済成長の余慶をそれなりに受けてはいた。その中で、高校家庭科女子のみ必修が2単位から4単位へ改訂されるなど、男女の特性論に根ざした性別役割分業システムは一層強化される傾向があった。

 日本の労働法規を見なおせば、戦後間もなくつくられた労働基準法は、女性を弱者として保護する色彩が強く、平等に関してはわずかに「同一労働同一賃金」があるのみ。現実には男女の賃金格差も定年差別もあたりまえのように存在した。日産自動車の男子55才、女子50才の定年差別について、最高裁がはっきりと違憲の判断を下したのは、1981年、国際婦人年を過ぎて、国連女性の10年(1976〜85年)の中のことだった。

 労働組合婦人部(今では女性部)の活動も「平等」をめざすよりは、「保護」の強化が中心だった。公的な職場をはじめ表立った差別的退職制度は少ない職場では、共働きが確実に増加していった。家事のほとんどを担う女性にとって、仕事と家庭の両立のため、残業・深夜業規制の保護は「権利」であった。事実、戦後の女性労働運動は、女性の保護を中心課題とし、「立てば生休、座れば産休、歩く姿は保育所づくり」などと言われたものである。ニードに即した保育所の質的充実、産休の拡充と保障は今も大きな課題であるが、当時の組合活動において、「保護」が先行し、職場、家庭、社会における男女「平等」は後回しにされた観は否めない。保護が通れば平等引っ込む。女性が仕事を持つことへの社会の許容度は広がったものの、女性はいつも「主婦」「母」であった。家庭と仕事の両立を求められるのは、いつも女性の側であり、共働きと専業主婦家庭を比べても、家事分担の男女比はそう変わっていない。

 高度経済成長の中で、女性の就労が一般化したものの、出産期に中断して家事・育児に専念し中年で主としてパートで再就職する、といういわゆるM字型雇用が定着した。ある時期まで、このM字型雇用は、先進資本主義国に共通すると認識されていたが、最近ではむしろ日本に顕著な特徴となっている。女性に一極集中した家事育児負担、出産すると退職せざるを得ない女性の職場環境などが、非婚化、少子化の原因、という認識も普遍化してきた。

 戦後の男女平等への歩み、第二幕は、経済高度成長を基盤とする就業構造の変化を背景に、女性の多様機会がひろがり、M字型とはいえ、一方で働きつづける女性もまた増えてきた国際婦人年以降(1975年)であろう。85年の「均等法」の制定は、当時の女性側の力不足による妥協を余儀なくされたが、多くの女性にとってこれまでの雇用慣行に疑問をもち、男女の性別役割分担の負の副産物を見据えるきっかけとなった。

 第三幕が90年代以降であろう。89年の東西ベルリンの壁の崩壊とも連動し、最近で言えば、地方分権、情報公開、NPO法、など、国と地方、行政と民間団体などの対等なパートナーシップが求められるようになった。上意下達、支配と従属の関係から「自己決定」がさまざまな場面でキーワードとなる時代となった。経済界に関心の高い規制緩和も、一般的にはこの文脈ですすめられている。それならば男女間の対等なパートナーシップの形成を忘れてはなるまい。この6月制定された男女共同参画社会基本法はそのあらわれである。そしてそれ以前に大改正されて、募集採用をはじめとする男女差別が「禁止」され、企業にセクシュアル・ハラスメントを防止する義務を課し、積極的是正措置を求めた、新しい「均等法」も時代の流れを示すものである。「保護」は直接的母性保護(産休など)に限って手厚くし、育児、介護休業は男女とも利用できる制度として創られた。厚生省が作成したポスターは人気歌手の夫が子を抱き、「育児をしない男を父とは呼ばない」。少子化対策とはいえ、女性運動の側の主張が国の政策のことばと変わりなくなった。この延長線上に「家事をしない男を夫と呼ばない」「介護を分担しない男を人間とは呼ばない」があって不思議ではない。「基本法」は、社会の制度や慣行が男女の人生の選択に「中立的」にはたらくよう配慮を求めている。また、家庭責任を果たすとともにそれ以外の「他の活動」すなわち仕事や地域での活動と両立するように、男女の協力と社会的支援を求めている。ここにある「協力」は男は仕事、女は家庭という性別分業的「協力」を否定している。

 男女に「中立的な慣行・制度」というなら、無職または低所得の妻を持つ夫への税制上の優遇や、そうした妻への年金における「第三号被保険者」としての位置づけは、やがて社会全体の問題として向き合わざるを得ないだろう。平成九年度の「国民生活白書」(経済企画庁)は働く女性の問題に一つの商店を絞り、ほとんど若年女性に雇用機会が限られた「大企業型雇用慣行」を批判している。少子化の原因は、職場においては出産育児中の女性が排除される傾向、家庭においては家庭責任の一括集中と、家制度の残存による舅姑への介護責任の存在。双方の不平等が女性に、その反映として男性にも結構ためらわせ、今や日本は世界一の大シングル社会となった。単なる選択の自由とは言えない実態である。

 日本型雇用慣行は、男女・夫婦間の意識と生活のギャップをより深くさせている。たとえば近年の接待汚職(ノーパンシャブシャブ汚職として世界的に有名になった)の温床となる。家庭責任を持つ人間ならば、男女を問わず連日連夜の接待につき合うことはできないはずである。男性に職場責任と経済力を与え、女性に税制・社会保障制度などで一見優遇しつつ、出産育児を疎外し、良好な雇用機会の外に置き、過程責任を課する。この徹底した性別役割分業は、ある意味で効率がよく、これまでは日本経発展の目に見えない基盤であった。

 しかし、成熟社会を迎えた今、いわばグローバル・スタンダードをはるかに下回る日本の女性の地位は、むしろ経済活動発展の疎外要因となっている。長期的にみれば、先進国の中でも著しい少子化・シングル化であり、一方、高齢社会を迎え、65才人口中6割を占める女性の経済的脆弱さは、社会全体の足を引っぱりかねない。短期的には、女性を対等なパートナーとして人権を尊重することを忘れがちになり、女性への暴力やセクシュアル・ハラスメントに鈍感になる。アメリカ最大の補償を支払った日本企業は、実質的損失につながった事例である。

 「均等法」改正にもかかわらず、女性を取り巻く雇用情勢はきびしいものがある。しかし、いつの時代も経済的自立は男女平等をすすめる鍵である。夫婦間の暴力の問題にしても、女性側に経済的自立脳裏幾があればかなりの比率で解決できる。日本は、管理職への登用など、職場における女性の参画度が先進国中最も低い国である。職場における女性の地位が国際的な豊かさ指標においても、日本の順位を引き下げている。短期的には効率がよかった男性中心の企業も、長期的には人口の過半数を占める女性の生活実感が欠落し、持続可能な企業活動ができるとは思えない。

 東京都は「日本型雇用慣行」のメッカというべき大企業の本社が集中する地域であり、国際的国内的な情報の大集散地であり、なにごとも東京の実践は各地に影響を与える。男女共同参画をはじめ個人の人権に根ざした基準は、あえていえば、サッカーのワールドカップのルールブックのようなものだ。効率を追求し競争するのは結構だが、そのためには守るべきルールがある。

 今回、都知事に提出した「男女平等推進条例」(仮称)に盛り込むべき内容には、企業への注文が目玉の一つである。反論もあろうが、「ご時勢じゃ」と思って協力してほしい。歴史は、つねに国内の一部の男性がいくら反対しても、結局は男女平等の側に地球が回っていったことを証明しているのだから。


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