手足が不自由なこどものための"ねむの木学園"のとなりに、"ねむの木のどかな家"という、同じようにからだが不自由な大人の方の施設をつくった。
重吉さんは、誰も身寄りがない。
ずっと、1人で生活して来たらしい。
らしいというのは、誰もわからないから。
ほよっとしていて、フンフンとうなずく。
すべて、身辺は他人が介助する。
しかし、食事はやっと持てるスプーンで自分でする。
人に手伝ってもらうより、ゆっくり、ゆっくりでもたべたほうが、うれしいらしい。
いつも、とめどなくうえているみたい。
びっくりするほど、きざみ食だけど、たべる。
愛をのみこむように。
うれしそうに、ほんとにうれしそうに。
けれど、あんまりうれしくて、誤飲する。
とても苦しく、そのため気管支に傷がつき、咳が出て、熱が出る。
熱が出ると、汗が出る。
そして風邪を引く。
風邪をひいたら、肺炎になりやすい。
一年間に、肺炎になったのが、三回あり、救急車だ。
この間、七度五分、熱が出たとおもうと、さっと九度七分に上がった。
病院について行き、医者に叱られた。
丸く白くなった胸のレントゲン写真をみて、
「何故、もっと早く、手当をしなかったか?」
ついさっき、七度の時、ねむの木のどかな家のお医者が、
「風邪ですね。様子をみましょう」
と、いったばかり。
お出かけの車の音がまだきこえるような時、ふと心配になり、熱をはかったら九度あった。
そのまま入院、ぐっしょり汗をかいた。
氷枕をつくる者、汗を拭く者、からだをかかえる者、三人でやった。
からだをかかえていた私がどきっとした。
オッパイに、重吉さんの顔がくっついていたから。
ぐっとこらえた。
驚いては、茂義さんが傷つくから。
心に傷がついたら、ショックであろうから、本人も気づかず抱かれていた。
一人で生活していた重吉さんは、昔のことはわからず、忘れている?
忘れていないかも知れないけど、忘れている。
誰も知らないから。
しゃべる身寄りがなかったから。
私は、おっぱいにぴったり顔がくっついていることは、やはりびっくりして、恥ずかしい。
けれど思った。
昔のことは忘れたんだったら、赤ちゃんの記憶だ。
そうかナ。そうだナ。
そのままゆっくり氷枕に頭をのせた。
二時間たって、点滴がきいてきたのか、お熱は少し下がりはじめた。
おだやかに、すこし、うとうとしはじめた重吉さん。
三人も病院にいては、じゃまになるので、1人残して二人帰った。
「大丈夫だからね。安心してね」
重吉さんはウンとうなずいた。
「うなずいてくれたから大丈夫よね」
そういいながら二人は帰った。
三日たって、重吉さんは、熱も下がったし、安心しているようなので、私は病室に行った。
一本、コスモスの花を持って。
四人病棟は、おくところが少ないから、コップにさすため、一本である。
そのコスモスの花を、
「おみまい」
と、さし出したら、じっと寝たきりの重吉さんが、ありったけの力を出して、手を伸ばし、枕から、頭を上げ、からだをおこした。
びっくりして、もとのように看護婦が寝させたが、重吉さんは、元気そうにほっとピンク色に顔がそまっている。
のばしたその手にコスモスをそっと持たせた。
落としそうになる手から、花を受けとり、コップにさした。
コスモスを見、私の顔を見、重吉さんは、うれしそうにした。
「こんな、うれしそうな重吉さん、まだ見たことありませんでした」
と、交代でついている人がいった。
「早く、よくなって、帰って来てね」
そう、私はいって、すぐ病院を出た。
十日程して退院した。
ねむの木のどかな家の、自分のベッドにうつされた重吉さんは、ほっとしたように、手足をなげ出しフトンをかけてもらった。
そして、半年後、また風邪をひき、九度七分の熱を出し入院した。
その間にも何回も八度程の熱をだしたが入院はさせずにいられた。
重吉さんは、1995年、原因不明でたおれて、意識を失っていたのを見つけてもらい救急で入院し、精密検査の結果、低酸素脳症、熱中症、多臓器不全を診断され、その後遺症として、体幹四肢筋力低下、運動失調、四肢のミオクローヌス(こきざみに震える)が残った。ねむの木のどかな家に来られたのが1997年の夏。
一度死んでいたのに助かったという重吉さん。
この人は、どんな、楽しみがあたのだろうか?
この人は、どんな仕事をしていたのだろうか?
この人は何がうれしかったのか、何が悲しかったのか?
家族は何人あったのか?
女の人と一緒に暮らしたことがあったのだろうか?
勉強は何をしたのだろうか?
誰も知らない。
たった1人住む家で、意識を失ってたおれていたのが助かり、病院にいたのだから。
そんなことって、あるのだろうか。
私が、一人で旅行していて、たおれたら、同じことなのかしら。
外国で、旅行していて、パスポートを捨てておいてら、どこの誰かわからず死ねるのかナって、考えたことがあったっけ。
この人が、もし、病気がひどくなったら、
もし最後の日が来たら、
誰がたずねてくるのかしら。
小さな墓もつくっておかなくちゃいけないのかナ?
私は、こわくなった。
そんな大それたこと私は出来ない。
前にいた病院に電話した。
婦長さんにきいた。
「どうしたらいいの」
「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。なおりますから。重吉さんは病院にいるより、あなたのところにいられて、ほんとうに幸せ。そんな幸せをあの人もらっていたとは思えません。やすらぎ……それが重吉さんの幸せ」
「ふーん、この人は強いんだナ」
私は又、考えた。
そうかナ、それでいいのかな。
なにかちょっとでもできることないかナ。
この頃、重吉さんがかいた絵をもらった。
それは絵といえるものとも思えないが、幸せ色であった。