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私が、米国へ留学したのは、いまから30年以上前、1960年代だった。
ニューヨーク市のコロンビア大学でジャーナリズムを勉強していた私は、大学
にも近く、家賃も安く、窓からのハドソン河の展望もいい等の理由で、黒人居
住区ハーレムに住んでいた。ジャクソン・ファイブやジェームス・ブラウン等、
ブラックミュージックの殿堂アポロ劇場もアパートの目の前だったのも大きな
魅力だった。先ず、引っ越しの日から、大勢の子どもたちと友だちになれて楽
しかった。大きなキラキラ光る瞳、チョコレート色のおいしそうな厚い唇と輝
く黒い肌、アフリカの彫刻のように美しくかわいらしいと思った。
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しばらくして、或る日、私が大学から帰ってくる途
中、大学のキャンパスと団地の間にある砂場で、友
だちになったジミー君が、しょんぼり座っていた。
「どうしたの?」ときくと、「いままでここで仲良
く遊んでいたメリーちゃんが、学校に入ると白人
のボーイフレンドつくっちゃってボクともう遊んで
くれないんだ。」という。当時、白人と黒人は、小
学校から別々に分けられていた。メリーちやんは
大学の助教授の娘で白人だった。白人と黒人は一
緒に学べない、遊べない等、人種差別の現実を知
るには、ジミー君は幼なすぎた。
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ハーレムに住むにつれ、年齢を積むに従って子どもたちの瞳から光りが段々
うすれていくのに気がついた。そして、仕事もない男たちが酒や麻薬におぼれ
ていく現実をみるようになり、私の中に、黒い肌故に、白人と平等の権利や恩
恵が与えられない、人種差別への怒りがムラムラと湧いてきた。
ジャーナリズム科にいた私は、この世界一富める国アメリカの現実を写真で
記録したいとカメラを握るようになった。
その頃、マーチン・ルーサー・キング牧師やマルコムX等、黒人にも民主主義
の権利を主張する公民権運動やブラック・モスレム運動がハーレムでも盛んにな
ってきた。これこそ、怠惰なニグロでなく、美しいブラックへと変身しようとす
る黒人意識革命だった。私は夢中で写真を撮り続けた。写真とは、英語でPhotog
raphy。語源のラテン語でフォトは“光”、グラフィは“画く”だ。私は彼らの
美しく輝く姿をカメラで画きたいと思った。
1971年日本へ帰ってきた私は、1972年日本復帰を迎える沖縄を取材した。
米軍基地ばかりが一等地を占め、沖縄の人々はその周囲に追いこまれている現状を
みた。多くのアメラシアンつまり米軍人と沖縄の人々との混血児たち、そしてベト
ナムへとび立っていく戦闘機の爆音で、沖縄の学校の教室は揺れ、勉強もできない
現実をみた。
戦争の一番大きな犠牲者は、国家より、大人より、未来のあるはずの子どもたち
だ、と私は思う。第二次世界大戦終結後まもなく、北海道から東京へ父の仕事の関
係で私たち一家は引っ越してきた。東北・常磐線で上野に着いたとき、地下道を埋
めつくしている、ボサボサあたま、ボロボロのシャツ、素足の浮浪児たちの群に、
小さかった私は度肝を抜かれた。父母も家も何もかも失った戦争孤児たちとの出会
い、これが私の戦争原体験だった。
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