天皇制と夷人雑類

 このようにヤマト王朝は、この列島に早くから住んでいた先住民を

次々に征服していった。北方の先住民族は「蝦夷」と呼ばれた。南方

では「熊襲・隼人」がいたわけだが、東北地方から出土する数多くの

遺跡を見ても、南九州の縄文遺跡を見ても、彼ら先住民族が縄文時代

から高い文化を築いていたことが分かる。


 各地の山人や海人にも、縄文系の先住民族の末裔もいたであろう。

彼らは農耕に従事しないで、狩猟や漁撈などの自然採取で生活してい

た。本州の各地にも「土蜘蛛」と賤称された人たちが散在していたこ

とは文献史料にも出てくる。ヤマト王朝は、彼ら先住民を「夷人雑類

(いじんぞうるい)」と呼び、「まつろわぬ者」「化外(けがい)の民」と

して差別した。


 このようにして西日本を中心にこの列島を制覇した王は、七世紀末

には中国から律令制を導入して、古代国家としての体裁を整えた。そ

して倭を「日本」と改め、大君と呼ばれていたのを「天皇」を名乗る

ようになった。そして、身分制を超えた<現人神(あらひとがみ)>として、

身分制そのものの創出者として君臨したのである。もちろん、その仮

面を剥がせばただのヒトであって、征服者以外の何ものでもないが、

「大君は神にましませば−」と取り巻きに謳わせ、さまざまな儀礼に

よって宗教的粉飾を凝らし、カリスマ的権威を誇示するようになった。


 そのように古代天皇制国家の支配体制を確立したのは、万世一系を

自称する天皇制の第40代を名乗った天武天皇であった。クー・デタ

ーで政権を握った天武は、神武天皇以来の皇統を唱えて伊勢神宮を中

心に神祗体制を整え、即位礼として大嘗祭を創出した。


 天武の命によって着手された『古事記』『日本書紀』の神代篇は、

神話や伝説によって天皇の神格化を裏打ちする目的でもって編纂され

たことは、戦前から喜田貞吉らの先進的学者によってすでに唱えられ

ていたのである。そして、そこで語られている皇統譜も、その初期は

完全なフィクションであって、皇祖・神武天皇も実在しないことは、

今日ではもはや常識となっている。


 この十月(1997.10)に刊行される三国連太郎・沖浦対談上下二巻

「浮世の虚と実」「芸能史の深層」、ならびに11月(1997.11)に刊

行される沖浦編「日本文化の源流を探る」(いずれも解放出版社)に

おいて、多くの写真と図譜を入れて詳しく論じているのでぜひ参照さ

れたい。特に前者の対談では、文化と芸能を中心に被差別民衆の担っ

た歴史的な役割りが詳しく論じられている。



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