三つの重要な学説と発見

 日本学を発展させる上で、戦後における重要な学説と発見をいくつ

か挙げよと問われたならば、いろいろ考えた末に私は次の三つを挙げ

る。一つは、歴史学における江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝論」で

ある。第二は、人類学における埴原和郎氏の「日本人二重構造モデル

説」である。第三は近ごろ相次いだ考古学的話題になるが、その中で

も東北地方における「三内丸山遺跡」と南九州における「上野原遺跡」

の発掘である。


 青森市の三内丸山遺跡は、約5500年前から約1500年間にわ

たる約500人規模の集落跡である。巨木を用いた建造物、祭祀儀礼

を含む施設の計画的配置、漆工芸の技術、クリなどの栽培などに見ら

れるように、かなり高度な定住文化を営んでいた。それよりもなお古

く、約9500年前の堅穴住居が少なくとも十三棟が同時に建ってい

た鹿児島県国分市の上野原遺跡は、「日本最古のムラ」として注目を

集めた。改めて言うまでもなく前者は蝦夷=アイヌの先祖に連なる縄

文人の遺跡であり、後者は隼人に関連する縄文早期の遺跡である。


 すでにみたように、ヤマト王朝を樹立したのは、一世紀末ごろに北

方大陸から南下して朝鮮半島に入り、そこで高句麗を建国し、さらに

百済など半島南部を手中に収めて、三世紀末ごろに北九州に進攻して

きた騎馬民族集団だった。その学説の提唱者が江上波夫氏である。私

はこの「騎馬民族征服王朝論」を基本的に支持している。


 部分的にはいろいろ批判もあったが、発掘された新史料と考古学資

料によって、30年もかけて3段階にわたって自説を補強されてきた。

この説以外には、日本民族の重層構造を明らかにしながら、「万世一

系を自称する天皇制国家」の形成過程を体系的に解明した学説はない。

反対している研究者は、そこのところを整合的に解明できる学的体系

をまだ打ち立てられないのだ。


 武力に優れていたこの新来の集団は、北九州に入ってくると、すで

に米作農耕と金属器をもって西日本を中心に農耕を営んでいた人たち、

すなわち、弥生系文化の集団を統合することに成功した。そして、九

州で一定の基盤を築いてから東への進出をはかってきたが、やがて近

畿地方を中心に在来の諸集団を傘下に入れて、大君(おおきみ)をいた

だく政権を打ち立てた。4世紀後半には西日本を統一し、5世紀には

東北地方を除く東日本まで進出し、ヤマト王朝を建設した。そして、

自らを「天津神(あまつかみ)」の子孫、天孫族と呼び、この列島に渡

来する以前から住んでいた弥生系の人びとを「国津神(くにつかみ)」

系と呼んで区別して支配体制に組み込んだ。



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