五〇代の女性と母親
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挿絵  彼女は、彼女自身の人生と、彼女のお母さんの

人生について書いて下さいました。この手紙につ

いては、私は彼女からの伝言「一人でも多くの人

に伝えてください」という約束も含めて、いろん

なところで紹介していますが、一回目の手紙を紹介し終えた後に二通め、三

通め、四通め、五通め、六通め、七通め、八通め、次々に手紙をいただい

て、そのフォローとしても手紙をさらにご紹介しなければならない状況にあ

るのですが、彼女の場合も氏名は伏せておいて下さいとおっしゃっていま

す。

 ある農村地帯に住んでおられる50代の女性、彼女は昨年私が、新聞の

朝刊に連載していた「揺れて」という小説を読んで、単行本になってから

さらに呼んで下さってから、この手紙を書いて下さっています。そして、

当時77才の自分の母親の人生と自分自身が母の人生を見て育つ日々の中

で、どのような傷を受けたか、あるいはその傷をどのようにして乗り越え

ようとしてきたかについて書いてあります。


耐えることで生き抜いた母
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挿絵  「母は77才です。19才で母は農家の長男で

ある父と結婚し、苦労続きの人生をただただ耐え

ることで生きぬいてきた人です。耐えることを社

会から教えられ、耐えることを社会から学習させ

られたその結果です。男女平等など母にとっては絵に描いた餅のようなも

のだったでしょう。母は嫁ぎ先の人から見れば報酬を必要としない労働力

であり、当時の感覚でいうのなら、跡継ぎを産むための道具であり、年中

無休の使用人のようなものであったかもしれません。

 実は私は生まれつき両肘と股関節に障害があります。はじめての子ども

が跡継ぎになる男の子でなく女の子であったこと、それも先天的な障害を

もっていたことで、嫁と呼ばれた母は、父の親族からさまざまな非難を受

けたようです。私にとって私の障害が私の責任でないのと同じように、母

にとっても生まれた子どもが女の子であり、その女の子が障害をもって生

まれたことは何ら責任のないことですし、努力によって越えられるこので

もありません。

 しかるにこの国の社会意識は跡継ぎを産まなかった嫁である母に対し

て、障害のある子を産んだ嫁である母に対して、さまざまな形での非難を

用意していたのです。

 ごくごく幼い時の私の記憶に、真夜中に我が家だけ大雨が降った記憶が

あります。おかしいです、我が家だけに雨が降るなんて。でも子どもの私

にはそう思われました。昨夜確かに雨が降った。ザーザー、ザーザー雨が

降った。私はその音を確かに聞いた。翌朝、母に私は聞くのです。『母ち

ゃん昨夜、雨降った?』母はいつも寂しそうに笑って、『降らないよ』と

いうのです。あの雨の音が何だったのかわかったのはずっとあとのこと、

大家族が寝静まったあと、これは父親側の家族ですが、母はたった一人で

風呂場で何度も何度も頭からぬるくなったお湯を、冬場には、すでに水に

なったものをかぶっていたのだとわかりました。何のために、泣き声を隠

すために、あるいは、無意識のうちに自分の苦しみを洗い流したいという

思いもあったでしょう。

挿絵  母はこのようにいわれたのです。『うちの家系

に障害なんてない。おまえの家系に悪い血が流れ

ているのだ』。ここでもまた血という感覚が人を

排除し、人を差別する時のひとつの基準になって

いるわけです。あるいは、こうもいわれました。『跡取りだと思って楽し

みにしていたのに、女の子を、それも障害のある子を産んで、昔だったら

即離婚か、親子心中ものだ』。まるで私たち親子が今ここに生きているこ

とすら受け入れ難いというような父の家族の反応でした。」

 ここでも私たちは、現代のある種の尾を残している、しっぽを残してい

るところの差別を見つけることができます。この言葉も使いたくありませ

んが、お姑さんとお嫁さんが、VSの対立関係というのは、いまもってテ

レビのテーマになったりもしますし、あるいはすでに障害をもって生まれ

てきた子や生まれてきたときはそうでなかったのですが、途中で障害を持

った人々に対して私たちの社会が必ずしも共感を持ち、また共に生きてい

こうとしているかは問題です。あるいは時にはそれは同情という名のオブ

ラートにくるんだ差別を生む場合だってあるわけです。彼女の場合はまさ

にそうだったのです。

 当時の女性の中には、反対に「嫁して三年子なきは去れ」というあの古

臭い感覚のもとで、結婚して三年たって子どもがいなかったら離婚された

ってしかたがない、どっちに原因があるかも、たまたま自然に生まれない

かも問われないまま女性側が離婚されたこともあれば、あるいは子どもの

生まれない奥さんは、旦那さんがよそに子どもをつくることをそのまま認

めざるを得ないという状況も時にはあったでしょうし「石女(うまずめ)」

と呼ぶような差別的な感覚や言葉もあった時代のことです。そして彼女の

お母さんは、女の子を産んだこと、その子が先天的障害をもっていたこと

で、この父親の家族の中で差別され、さまざまなことをいわれた。さらに

彼女は自分の子ども時代についてこう書いています。

挿絵  「私は長い間、あの家で隠される子どもでし

た。近隣の人々は私に障害があるのを知ってしま

ったのです。それも隠せと父の親族はいっていま

したが。隠しようもない事実として、私が成長す

る中で知ってしまいました。その噂はどんどん広がっていきましたが、体

面を重んじる父の親族は隣の村まではまだ知られていない、その村のむこ

うの人々にはまだ知られていない、町の人々は知らないということで、何

か大きな集まりがあるたびに私は一番奥の部屋に閉じ込められる、隠され

る子どもでした。

 ある日の記憶にこんなことがあります。障害がありましたが少しづつ行

動範囲が広がって奥の部屋に閉じ込められてもその部屋の襖をあけて出て

いってしまう私に気がついた父の親族は、最終的に客人がある日の私の居

場所として納戸を用意しました。暗く湿った空間です。時々、自分の足の

上をねずみが走って行く空間です。その空間に私は入れられて戸を閉めら

れ外からしんばり棒をかけられました。ある日のこと、どうしてもおしっ

こをしたくなった私は、内側から戸をたたいてしんばり棒をとってほしい

といったのです。『開けて開けて』と叫ぶ私です。けれどもその声は届か

なかったのか、あるいは届いても開けたくはなかったのか、隠す子どもは

最後まで隠せと思ったのか、しんばり棒ははずされず、私はその場でおし

っこをしてしまいました。自分の足元に出来たおしっこの生温かい水溜ま

りをみつめながら私は、言葉よりも先に惨めさという感覚と屈辱という感

覚を身をもって覚えてしまった子どもです。

 集まりにはこの子を出さないように、家にはまだ嫁にいってないない娘

もいる。縁談にさしつかえる。『隠せ、隠せ、隠せ』私はそういわれたの

です。もちろんそういわざるを得なかった父の親族もまた、世間にあると

ころの差別意識のある面では被害者であったという気もしないではありま

せん。このとき私は自分が受けた悲しみというものを考えると、ある面で

の被害者であり、同時に母や私にとっては加害者であったといわざるを得

ません。

挿絵  『しょうもない手のかかる子を産んで、昔だっ

たらこんな子は流れていたはずだ。自然流産して

いたはずだ。たとえ生まれたとしても、顔の上に

枕をのせて、ギュッと押さえつければそれですん

だのに』と、襖ごしに酔った、私から見れば父親の父親、祖父が伯父と話

している声を聞いたこともあります。

 『母ちゃん、よそいこう。よそいこう』というのが当時の私の口癖でし

た。私は知っていました。父の親族の前ではそういってはいけないこと

を、母と二人だけの時間を見計らって、私は、いつも『よそいこう、よそ

いこう』といったのです。よそとはここではないどこか、私たちが、私た

ちであるがままに暮らせるどこか、私たちが私たちであることを拒絶され

ないどこかを当時の私は『よそ、よそ』としかいえなかったのです。けれ

ども母は、耐えること、従順であること、受け身であること、それが女の

つとめであるという国単位の学習の結果、ひたすら耐える女性を生き続け

てきたのです。そんなことは出来ないというように例によって首を横にふ

りながら、けれどもその母が最初で最後の反乱を起こしました。


母の反乱
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挿絵  父の父、私から見れば祖父が次のようにいった

時です。『手のかかる子は腰紐をつけて家の柱に

くくりつけておけ。腰紐はできるだけ短くしろ。

犬だって鎖でつないでいる』。この時だけ、あれ

ほど従順で、じれったいほど受け身だった母がはっきりと拒絶したので

す。『犬だって鎖がないままに走りたい日もあるでしょう。私はこの子に

紐をつけることはできません。家の柱にくくりつけておくことはできませ

ん』。そういった母のほっぺたを祖父の手が打っていました。母の頬には

っきりと指のあとがわかるほどついたその手形ゆえではないでしょう。そ

の痛みゆえではないでしょう。ずっとあとになって母はこういっていまし

た。

 『あの時、自分の父親の横に立って、自分の父親が自分の妻と自分の娘

をあれだけ屈辱的な思いの中に落とし込んでいるのをただ黙って見ていた

あの人がもういらないって思えたの』。あの人とはつまり母から見れば

夫、私から見れば実の父親です。私と母はあの家を出ました。あらゆる仕

事を点々として母は私を育ててくれました。幼児期の障害は中学の時手術

を受けほとんど回復しました。母はたとえではなく、本当に食べるものも

食べずに、私のための手術の費用をつくってくれたのです。


何かを始めるのに遅すぎる季節はない
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挿絵  話は元に戻ります。その母が『揺れて』に赤鉛

筆で線を引きながら読んでいたのです。尋常小学

校卒、それも子守りをしながらの卒業、『ほとん

ど学校にいかなかったよ。それでも卒業できちゃ

ったんだねえ』という母は、難しい漢字は読めません。あるいは、耳で聞

いて知っている漢字はあっても、活字で見るとそれが何と読むのかわから

ない場合が少なくありません。そんな母は、難しい漢字に出会うと私に聞

いて、また意味も聞いて、読み方も聞いて、また小説の中に戻っていくの

です。

 単行本になったときに二冊買いました。一冊は自分のために、これは保

育者になっている娘が読んでいます。そしてもう一冊は照れくさいのです

が、りぼんをつけて母にプレゼントしました。『本なんてもらったのは初

めてだよ』といって母がうれしそうに笑っている姿がありました。単行本

の帯のところに次のような言葉がありました。「何かを始めるのに遅すぎ

る季節はない」というあの言葉が、母はとても気にいっています。

 母の赤鉛筆はその『何かを始めるのに遅すぎる季節はない』という一行

の下に今度は二本の線をしっかり引きました。想像して下さい。77才の

その母が、『何かを始めるのに遅すぎる季節はない』という言葉にこんな

に心を震わせているのです。」

という手紙です。

 この手紙を書いてくださった50代の女性の子どもと向かい合うお仕事

を選んでおられる方なのですが、さてこの手紙のあと、この方から第二

便、第三便、第四便、第五便、いろいろなレポートが届く中で、この77

才の、ついこの間78才になられたひとりのお母さんが、見事に何かを始

めました。遅すぎないのですよと示してくれるようなことが起こりつつあ

るとおっしゃっています。

挿絵  最初はささやかな変化です。朝夕の散歩の時に

77才の彼女は、小さな小さなスケッチブックを

もって、スケッチを始めた。道端の草やら何やら

を。娘さんは知らないお母さんの顔を見つけた。

「お母さん、いつそんな絵などやり始めたの」といったらお母さんが、

「ずっとずっと昔、70数年も昔、私は絵がとっても好きだった。けれど

も、家は絵の勉強をしたいなんていうどころか、一枚の白い紙を買うこと

すら贅沢だといわれた家だった。そして確かに事実、一枚の紙すら贅沢に

感じるような暮らしだったので忘れてしまっていた。ところが、何かを始

めるのに遅すぎる季節はないと思って、その心の奥底を指でかきわけての

ぞいたとき、子ども時代の自分がひょっこり顔をあげて、そうだ、絵をか

きたいよといっているのに気が付いた。文房具屋さんにいってスケッチブ

ックを買った」。娘さんの言葉によると切ないほど小さな一番安いスケッ

チブックを買ってきた母です。朝晩の散歩の中で草木を描いたり、何かが

確実に変わりつつある予兆が見えます。

 という手紙、そして三通め、四通め、五通めでは高齢化社会の中で私た

ちも考えなくてはいけない一つの提案がなされていました。

 ある日、お母さんはこういった。「家の玄関の半坪を私に貸しておくれ

でないかい」。「半坪で何するの」と娘さんが聞いたところ、「半坪で私

の一番得意な商いをするんだ。(肉体労働を続けてきたお母さんは)長い

こと働いていた時は、早くよそのお婆ちゃんみたいに家に入りたいなと正

直に思った。こんな辛い思いをして働くにはもういやだと思った。ところ

が、家に入って、いわゆるご隠居さんふうな生活が始まると、私の体がい

いだした。まだまだ働きたいよ。けれども70代後半の私はもうどこにも

就職できない。何が得意かと聞かれたときに、昔むかし、おまえを連れて

あの家を飛び出した時、工場で働きながら仕事が終わると八百屋さんに飛

んでいった。そして、八百屋さんの店先で明日までとっておけないために

安くなったひと山いくらの野菜を買い、次に魚屋さんに飛んでいって、明

日までとっておけないひと皿いくらのアラなんかを買ってきて、わずかな

材料でとても栄養のあるものを作ろうと思っていたあの日々の中で、私は

かなり料理の腕が上がったはずだ。今、またそれをやりたい。つまり、

挿絵 朝夕、どんぶりに三つか四つでいい、自分の一番

得意なきんぴらごぼうやはすの酢漬けでもなんで

もいい、筑前煮でもいい。昆布を煮たものでもい

い。かつて食卓にあり、現代の食卓から消えつつ

あるものを、そして、それをいつも、女が外に出始めたせいで家庭料理が

食べられなくなったという言い方は大変アンフェアーで、家庭料理は男も

女も作ればいいものを、いつもそこで攻められるのは女たちだけれども、

働いている女の人の気持ちは私にだってわかるんだ。だからその人たちが

会社の帰りに、旦那さんが会社の帰りにちょっと買っていけるような、そ

して、全部どんぶりばちの中のものが売れたら、今日はもう閉店ですとや

れるようなそんな小さい商いをしたい。一つは自分のはりのため、二つは

私自身がふけないため、三つめは自分の喜びが誰かの喜びになったらうれ

しいから、四つめの大切なこと、ある年代になって娘といえども誰かから

お小遣いをもらう身になるとやっぱり好きなことが言えない。好きなこと

が出来ない。どんなに小っちゃくてもいいから、自分で働いて、自分で使

えるお金が欲しいと私はしみじみ思う。だからこのどんぶりばちにいろん

なものをもって売って、小さな商いを私にさせておくれね」とお母さんが

言い出した。

 50代の娘さんの第三便、第四便には、娘の私たちがあれよあれよとい

っている間に母親はまさに、「何かを始めるのに遅すぎる季節はない」を

実行しています。


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