隣の家に蔵が建つと
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挿絵  そしたらなんでそれ程簡単に「差別」を受け入れて

しまったのか。僕の場合、結局「優越感をくすぐられ

るのは嬉しいし、自分より下の存在はすんなり受け入

れる」という心根にあると思います。もちろんこんなもん持って生まれた

のではありません。今の社会は何から何まで競争・比較・優劣・上下の世

の中です。そんな中で僕らは他人と比較することでしか自分の値打ちを計

れないというひ弱な心にされてしまっているんです。その結果、あれより

ましやという優越感の対象がなかったら頼りないわけです。そのうつろな

所へ差別がスポッと入りよったんです。

 実際僕らは較べることが好きです。うちの子が生まれた時聞かれたのが

「何グラムあった?」「二九八〇ぐらいでした」と言うと「いやー、ちょ

っと足らんねェ」八百屋でキャベツ買ってんのとちがいます。すぐこれで

す。昔も今も兄弟姉妹は較べられて競わされる。「お兄ちゃんは勉強よお

できたけど弟はなァ」「弟はしっかりしてるのに兄貴は頼りない」兄も弟

も嬉しくありません。うちも女の子二人です。姉の姿勢が悪かったりする

と「お姉ちゃん背中!」とか言います。するとおかしいのは姉に注意して

るのに妹の方がスッと反ります。昔の僕でしたら言うてました。「見て

み、妹はちゃんと伸びてるで、お姉ちゃんは妹に負けてるがな、妹に笑わ

れるでぇ」こう言われると、姉はしぶしぶ姿勢を正し、親も自分の言う通

りになったので気は済みます。けど姉の心には「怒られて悔しい、妹にえ

え格好されて腹が立つ」しか残りません。自分から姿勢を良くしようとい

う気にはなりません。しつけにも教育にもなっていないのです。較べて、

競わせて言うことをきかすのはその場はいいでしょうが後に何も残りませ

ん。自主性・主体性とは無縁のもんです。僕は子供の時、較べられるのが

ものすごく嫌でした。較べて競わされたらわざとええ加減にやったほどで

す。同和問題を通じて「およそ自分がされて嫌なことは人にしたらいか

ん」という大事な原則を学びました。だから「較べない」、「競争させな

い」ことを大切にしています。「お姉ちゃんの姿勢を問題にしてんのや、

妹は関係ない、お姉ちゃんはお姉ちゃんの悪いとこ直して、ええとこ伸ば

す、妹は妹や」と敢えて別々にします。えらいもんですなァ、二人別々に

してると仲がいいんです。一致団結して親にはむかってきます(辛い

〜)。

 また兄弟やから較べてしまうので、一人っ子やったら較べられないかと

いうとそうやない。法事の席、従兄弟同士で品評会される。「義夫ちゃん

よおできるんやてなァ。うちの和男あかんねがな。義夫ちゃん、うちのに

ちょっと勉強教えたってえな。和男!義夫ちゃんに勉強教えて貰いなさ

い。」なんで法事の席で勉強せなあかんねん。義夫ちゃんと和男君なんと

なくしっくりいかんようになります。学校へいったらそれこそパイナップ

ルの缶詰の輪切りで、誰より上で誰より下、だいたいクラスのここら辺。

こんなことばっかりです。テストで80点とります。「お母ちゃん80点

や」「そう良かったねぇ」で終わらへん。「それで他の子は?」。言いた

くありません。自分が80点ぐらいの時は他もいい点なんですから。「他

挿絵 の子も80点とか90点」「それやったらあかんやな

いの、テストがやさしかっただけやな」そらそうやろ

けどやる気に水をささんでもええやないですか。逆に

60点でも他が悪かったら風当たりがましになる。「え〜60点、もっと

がんばらな。ほんで他の子は?」「ウン他の子もそれぐらい。ええ子でも

60点ぐらいやねん」「ヘェーそしたらよお頑張った方や、テスト難しか

ってんなァ」(誰が基準や!)。周りとの兼ね合いで評価が決まる。子供

は答案用紙より点数を、点数より順位を気にするように仕向けられてるん

です。それで子供が周りの子との兼ね合いばかり気にする、いわゆる子供

なりの世間体意識を持つんです。子供はよく言います。「お友達と一緒で

ないとイヤ」「傘は赤でないとイヤ」「髪の毛は美容室で切りたい」全部

お友達です。娘は勝手なもんです。さんざんお友達と較べて気にするよう

に仕向けておいて、いざ子供が気にした時は「お友達はお友達、あんたは

あんたでしょ!」。こういうのをご都合主義というんですやろなァ。

 較べられる中で身につくのは勝った負けたの競争意識。勝って嬉しい、

負けて悔しい。競争も全く意味がないとは思いません。頑張るための励み

や目安になります。ただ励みも目安もどこまで行っても手段であって、目

的ではありません。勝ち負けそのものを目的にするからおかしくなるんで

す。勝った負けたはスポーツの世界にまかして、人生は勝ち負けにこだわ

らずいきたいものです。競争は人生の目的やないと思います。またこの競

争、こだわる割にはターゲットの範囲がものすごく狭い。とことん上も、

とことん下も視野にない。つまりは勝ったり負けたりする、ちょぼちょぼ

どうしのせめぎ合い。負けて悔しいのはそれまで勝ってるからで、負けっ

ぱなしの相手には悔しい気もおきません。そこら辺を昔の人は「隣の家に

蔵が建つと腹が立つ」と見事に表現しています。確かにそうです。隣に蔵

が建つからイライラするんであって、元々建っている大きな蔵には腹が立

たんのです。ならば隣の蔵など気にせず、自分の家に自分なりの蔵を建て

るべく頑張ったらええわけで、較べることは無意味です。僕ももちろんま

だできません、発展途上です。今は「隣の家に蔵が建っても腹が立たない

ような生き方をしよう。けど燃えたらなぜかスッとする(情けなァ〜)」

というのが正直なとこです。

挿絵  けどそれを目指して生きるのと、所詮世の中勝ち負

けやと思って生きるのとでは五年、十年後にはちょっ

とは違ってくると思います。また目指すべきです。勝

った負けたがとことん上を目指すものでないなら、行き着く先は「あれよ

りましや」と下見て暮らす情けない心根です。そしてあれよりましやと思

う為には「あれ」が必要になるんです。僕らは心の弱さのすき間に色んな

「あれよりまし」を入れて自分を支えています。「お金」「地位」「学

歴」「家」けどこんなもんはいつ逆転するかあやういものです。僕らのレ

ベルでは宝くじ一発当たったら「お金」なんてすぐに逆転サヨナラゲーム

です。すると簡単にはひっくり返らないものを入れようとします。逆転不

可能な不変の優越感の対象、即ち差別ということになります。差別は本人

の責任でないことですから、本人が努力して変えられるもんではありませ

ん。だからいったん優越感を持つとずっと持ち続けられます。

 例えば、今は世界中の人の鼻の穴は二つですが、これがもし欧米が三つ

で、日本が二つ、そして途上国が一つとしたら、僕らには三に対し劣等感

を持ち、一に対して優越感を持つでしょうね。その一つの国の人達が「お

金」や「地位」を得ても負け惜しみは言えます。「なんぼ金を持ってるか

知らんけど、所詮一つやないか。うちは言うても二つやねんから、大丈

夫」。何が大丈夫かわかりませんが、こんなこと言ってごまかすんでしょ

うね。何にもならへんのに。その代わりアメリカへ旅行する時は「二つ」

や言うて焦るんでしょうね。何とか三つにと、シールを貼るのがでてくる

かも知れません。鼻の穴の数は架空ですが、現実には「どこで生まれた、

親が誰か、国籍、皮膚の色、目の色、髪の毛、体格、体型、病気、障害、

男か女か等々・・・・・」限りなく本人の責任でない分け隔てのネタがあ

ります。そして誰もが何かで自分を縛り、コンプレックスを持つ。そして

他のネタで「あれよりましや」と自分を慰める。こんな寂しい心根で、一

遍しかない授かりもんの人生を大事にできると思えません。

 差別意識に気付づき、差別意識を取り除くことから始まって、あれより

ましやと慰めなければ支えられない心根の弱さに気づき、自分の人生にお

いて自立していくことやと思わしてもらいました。自立してこそ人生や、

自分の値打ちは自分で見極められる。そうや自分の人生、自分が主役や。

自分の責任のことは自分で引き受けて頑張る、そうでないことでクヨクヨ

する必要もない。コンプレックスなんか、ほんまは自分の責任でないこと

で悩んでいるだけや。焦ることもないし、較べることもない。そして怠け

ることもない。自分の人生に、自分なりの蔵建てるように頑張ったらええ

ねん。そうや、思うんやったら自分からや、できる範囲で、無理せんと、

けど本気で・・・・・。ほんまに同和問題との出会いで僕は生き方の腰が

据ったように思います。ありがたい事です。そしてその最初のきっかけが

あの「狭山事件」なんです。


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