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にして育ちました。アパートや文化住宅に「外国 人お断わり」の貼り紙があったのをおぼろげに覚 えています。その頃外国人と言えばマリリン・モ ンロー、ジョン・ウェインなどの白人でした。それが友達の朝鮮の子を指し ていると知っても、それが「差別」とはわかりませんでした。「かわいそう やなァ」と思っただけです。「かわいそう」ではいかんのです。「まちがい や」と言わなあかんかったのですが、誰もそれが差別やとは教えてくれませ んでした。あの頃差別という視点で物を見るということは、まだ一般的では ありませんでした。部落解放運動ありせばこそ今日の地平がきりひらかれて きたのです。これは紛れもなく差別貼り紙です。アパート・文化住宅でお断 わりをされても仕方ないのは「敷金・家賃を払わん人」「家を汚す人」で す。これはその人の責任です。お断りされたくなかったら、きちんとすれば いいのです。けど国籍でお断りされることはありません。国籍は本人の選ん だもんでもありません。その事でいいとか悪いとか言うべきことでもありま せん。その人の中味となんの関係もないことです。だから不当な分け隔て、 すなわち”差別”なんです。不当な事をしたらいかんのです。ところが、そ の頃は「かわいそう」だけでした。かわいそうというのは聞こえはいいけ ど、所詮「私はそうでなくてよかった」「ああなりたくない」の裏返しで す。「朝鮮人はお断りされるんか、朝鮮人は損やねんなァ。ああ、僕は日本 て受け入れてしまったのです。僕らみたいなその 他多勢が認めてしまうから、差別貼り紙があり続 けたわけです。僕らは積極的ではなかったし、悪 気もなかったのですが、差別(貼り紙)を間接的に支えてしまったのです。 差別には貼り紙を貼るような直接的(一次的)なのものと、それを支える間 接的(二次的)なものがあると思います。この間接的な方は悪意がないだけ に実にわかりにくい(自覚しにくい)のです。これをわからしてくれたのは やはり同和問題でした。 |