”人権畑”は耕されているか

 必要なのは、一般社会の隅々に、人権問題を同じ人間のこととして受け

入れられる下地、つまり”人権畑”があるかどうかです。社会の裾野に、

例えば満員電車で「周囲の人の存在、意思を無視しては・・・」と瞬間的

に判断できる感覚が根付いているかどうかです。血や肉となっていて、考

えなくとも自然に出る慣れになっているかどうかなのです。

 「畑」が耕されていてこそ、人権や同和のすぐれた知識、研究、研修も、

あちこちで芽を出し、普及するのです。波紋が広がり、人権知識が一部の

ものでなくなるのです。

 「日本人はなぜ、英語が話せないの?」。私は外国人に

散々、言われました。もちろん”バイリンガル”と言われ

る人は、たくさんいます。いや、そこまでいかなくとも、

少しはできるんです。ですが、不自由なく会話をしようと思うと、立ち往

生してしまうのです。私の基準で言えばそうです。

 でも、「立ち往生組」のこれまた大多数が、書かせれば鮮やかに、英文

を書けるのです。読むこともできるのです。書けるのに、読めるのに、自

由に話せない・・・のです。

 書くことと話すこと。言い換えれば、知識と意識につながります。

 街を歩いていて突然、外国人に出会い、英語で話しかけられた。さあ、

大変!中学、高校の教科書を必死になって頭の中でめくります。書くのな

ら・・・と思うからなお焦り、「えーと」「あのー」で終わってしまいま

す。

 「頭の中の教科書」が「知識」です。突然、話しかけられても、身体が

覚えていて無意識に反応するのが、「意識」です。平均的な日本人の「英

語」--これが、また平均的な日本人の「人権」感覚ではないでしょうか。

 日本人の「人権」への関心度は相当なものです。しかし、その関心の多

くが、何か問題が起きた時のための「人権知識」になっていないでしょう

か?あるいは、「さあ、人権を考えましょう」と言うときに発揮される

「頭の中の教科書」になっていないでしょうか?

 人権が危機管理対策であっていいわけはありません。その効用ももちろ

んあるでしょう。しかし、それでは、社会の人権意識は広がりません。熟

成しません。

 人権は「◯◯に行けばある」といったものではありません。

「◇◇へ行った時だけ、身に付けていればいい」ものでも

ありません。人が一人いれば人権があるのです。

 社会の隅々で、人権意識が「畑」になっていなければ、例えばいくら同

和問題を学んでも、社会全体には広がりません。「畑」がなければ、勉強

の場、研究機関内だけの人権で終わってしまいます。「人権知識」という

タネを蒔いても芽を出さないのです。

 つまりは、「書ける英語」のままです。目の前に突然、外国人が現われ、

英語で話しかけられた時の対応が、日頃の社会での人権感覚なのです。ち

ょっとした人権軽視にも敏感になれる感覚が「畑」になっていること。

「英語」で言えば、いつも会話に慣れていること。それが、突然、話しか

けられても身体が反応する「英語」力です。人権で言えば、社会に人権感

覚が溢れていると言えるのです。


前章へ 次章へ

目次