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人権は、「問題があるから」考え、関心を持つのではありません。それも いいことですが、「問題」なんかなくとも、人権意識がいつも、「くせ」 として、「慣れ」として、一人ひとりの身に付いていてこそ、「問題」にも 俊敏に対処できるのです。個々人の人権が尊重されるのです。「問題」は なくとも、いつも人々の「存在」「意思表示」とともに人権はついて回って いるのです。 意識を根付かせるにはどうすればいいのでしょう? 「習うより慣れ」です。様々な角度から日本の人権を 見てみましょう。 日本社会は、いわゆる圧倒的多数の「同質・均一」 集団を中心にして営まれてきました。「周りと同じ」 「みんなと同じ」が優先され、ちょっとでも違った環境、立場にある人や、 政治的、社会的になんらかの隔離状態に置かれた人々、つまり、 「みんなと同じでない人々」は、「異質」として排除されてきました。 のものでした。もっとも強く「異質」として、大多数の 社会からの敬遠、忌避、無視の対象になったのです。 古くには、障害者を家に閉じ込めて、外に出さない “座敷牢”があったほどです。 「皆の前に『変な人間』をさらしたら、家中、全部が異質扱いされる」 というとんでもない発想から生まれたものです。 被差別部落・出身者に対してもそうです。他の背景もいっぱいありますが、 大多数の同質社会は「自分たちとは違うんだ」と異質扱いし、排除してきました。 封建社会下の何の理由もない、悪しき身分制度であることがわかってからも差別 は続きました。 なぜでしょう? 圧倒的多数の同質集団は、大多数の慣習に浸っていたほうが 楽だからです。自分に火の粉が降りかかってこない限り、大多数の社会では、 差別も人権も考えなくても、生きていけるから、です。 この「異質排除」は、人間社会のもっとも身近な文化である言葉にも表れています。 言葉は文化の代表的なものです。その文化は、古い時代の特権階級社会から生ま れたものでしょう。学説的には異論があるかも知れませんが、少なくても、差別的、 偏見的な表現について、私はそう思います。
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