在日コリアンの人権について(2)

3.1910年前後〜1945年までの植民地支配

(1)日本はどのようにして朝鮮を植民地にしていったのですか?

 幕末の志士たちが精神的支柱と仰いだ吉田松陰は、『ロシアとアメリカに対しては信義を厚くして、その間に国力を養い、取りやすい朝鮮、満州、シナを切り従え、強者との交易で失った分は弱者の土地で償わせればよい』という趣旨のことを久坂玄瑞への書簡に書いています。明治政府はこの教えを忠実に実行に移しました。
 日本がペリーの砲艦外交に屈し不平等条約を強要されたように、日本の砲艦外交に抗することができなかった朝鮮は、1875年江華島条約という不平等条約の締結を強要されたのです。開港、治外法権、関税免除などがその不平等条約の内容です。
 その後、日本は朝鮮の近代化を求める甲午農民戦争(1894年)の鎮圧を理由に、軍隊を進駐させ、朝鮮の覇権をめぐって清国との戦争に突入しました。日清戦争(1894年)に勝利し、また、同様に朝鮮の利権を巡るロシアとの戦争(1904年)に勝利した日本は、朝鮮の領有化、植民地化を着々と進めていったのです。
 第一次日韓協約(1904年)から第三次日韓協約(1907年)により、大韓帝国(1897年に国号を朝鮮から変更)の外交権は奪われ、軍隊も解散を命じられました。この間、韓国統監府が置かれ、初代統監には伊藤博文が着任しています。
 1910年、日本は武力で威圧しながら「韓国併合条約」の締結を強要し、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲与す」ることとされ、ついに大韓帝国は消滅し、朝鮮総督府による植民地支配が始まったのです。
 歌人石川啄木はこのことを次のように唱いました。
 『地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く』

※引用中のシナは不適切な表現ですが、原文どおり掲載しました。

(2)36年間の植民地政策はどのようなものだったのですか?

 朝鮮総督府の植民地政策は、総督直属の憲兵警察体制(軍事警察と普通警察が一体化したもの)による武断統治という性格をもったものでした。官吏から教員にいたるまで制服帯剣という姿にその性格が象徴されています。
朝鮮総督府のこの武断統治において最重要な事業が土地調査事業でした。土地調査事業とは、明治政府がかつて北海道でしたように、朝鮮の多くの土地を国有地にするための政策です。この事業により、多くの朝鮮の農民が土地を失い小作農に転落していきました。さらに日本人地主からの過酷な収奪もあり、多くの農民が中国東北部やソ連、日本などに移り住まざるを得なかったのです。
 このような植民地政策に怒った朝鮮民衆は3・1独立運動に立ち上がりました。広範囲にわたる朝鮮民衆の闘いは、それまでの武断統治では植民地支配が維持できないということを日本政府に認識させ、いわゆる「文化統治」が導入されました。
 憲兵警察制度が普通警察制度に変えられ、表面的には朝鮮人に言論、出版、集会、結社が許可され、植民地支配への朝鮮民衆の不満・抵抗を和らげようとしたのでした。
 1931年の満州事変から始まる15年戦争の間、植民地朝鮮は戦争を遂行する日本帝国主義の兵站基地と化したといえます。それと同時に朝鮮人を天皇の臣民にする「皇民化」政策が取られ始めます。このような流れのなかで、学校などでの朝鮮語使用が禁止されたり、創氏改名(1940年)が強制されました。
 1930年代後半からは多くの朝鮮人が強制的に日本に連れて行かれ、厳しく働かされたり、軍属や軍人として徴用されました。当時の日本人が植民地下の朝鮮人に対して持っていた差別意識は、『イワシは魚か、鮮人も人間か?』ということばによく表されています。
※引用中の鮮人は不適切な表現ですが、原文どおり掲載しました。

(3)日本の植民地支配を朝鮮人は受け入れていたのでしょうか?

 朝鮮はその歴史において、6千回ほど他民族からの侵略を受けたといいます。それでも、現在まで存続している理由は独立心が旺盛な民族であったからともいえるでしょう。圧倒的な武力の前に朝鮮は日本の植民地になりましたが、朝鮮民族は一日たりとも独立運動をやめませんでした。
 1894年の甲午農民戦争は腐りきった朝鮮王朝への挑戦であると同時に、植民地化を進める日本への抵抗の闘いでもあったのです。1909年、初代統監の伊藤博文は義兵闘争の指導者であった安重根によりハルビンで射殺され、1919年の3・1独立運動には200万人以上が参加しました。この年には大韓民国臨時政府が上海に樹立されています。
 1929年の光州学生事件にも数万人の朝鮮人学生がデモを行い、3・1独立運動以降最大の反日闘争が闘われました。このように独立を求める闘いは、国内、日本、海外においてとぎれることなく展開されていました。その闘いは次第に武力闘争という形態を取り、中国東北部での光復軍や抗日パルチザンの闘いに継承されたのです。
 もちろん、日本の植民地政策に協力的な「親日派」といわれる朝鮮人も存在しましたが、ほとんどの朝鮮人は植民地支配の終焉、すなわち朝鮮独立を願っていたのです。

(4)日本に在日コリアンが多く住んでいるのはなぜですか?

 日本に在日コリアンが多く住んでいる理由は、日本の植民地支配が大きな理由といえます。土地調査事業をはじめとする過酷な植民地政策により、朝鮮の農村経済は破綻をきたしました。農業で自活できなくなった農民の多くが安くとも現金収入が得られる日本にきて、労働者として働らいたのです。このように植民地時代に故郷を離れ、日本や中国東北部に移り住んだ朝鮮人の総数は400万人とも500万人ともいわれています。
 また、1937年に始まった日中戦争のころから、日本はより多くの朝鮮人労働者を必要としました。日本人の多くが兵士に取られて働き手が少なかったためです。朝鮮から自然に流入する労働者だけでは足りず、1939年からは「強制連行」が始まりました。このように強制的に日本に連行された朝鮮人の数は推定約70万人とも100万人を超えるともいわれています。
 このようにして、1945年5月には推定約210万もの朝鮮人が日本に住んでいたのです。2002年末の統計によると、日本に居住する韓国・朝鮮籍住民の数は約62万5千人です。これらの人々の多くが旧植民地出身者とその子孫たちです。

(5)関東大震災のときに多くの朝鮮人が殺されたのは事実ですか?

 1923年9月1日に起きた関東大震災は、死者10万人以上、罹災者数340万人という大惨事となりました。この大災害のなか、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」、「朝鮮人が武装して暴動を起こしている」というデマが流され、戒厳令がしかれました。
 このような非常事態のもとで、戒厳軍、警察や武装した自警団が竹槍やとび口などで朝鮮人を殺害しました。自警団が老若男女を問わず朝鮮人と見られる者を袋だたきにしたり、体を鉄線でぐるぐる巻きにし、生きたまま荒川に投げ込んだという証言もあります。殺された朝鮮人の数は定かではありませんが、2千名とも6千名ともといわれています。
 朝鮮人に対する偏見や差別意識が強かった当時の日本人が、このようなデマに簡単にのせられ、罪のない人たちを虐殺したという事実は決して忘れてはならないでしょう。