ご存じですか


差別語と差別表現

 差別語の問題は、「部落差別をはじめとするあらゆる差別を生み出し、差

別分断を継続している、政治のあり方、経済のしくみ、社会の構造そのもの

に、深くメスを入れなければならない問題であり、日本の文化構造そのもの

の差別性について問い質すこと」と言われています。また、差別表現の問題

は、「侮辱の意思」がその表現の中に含まれているか否かが決定的基準で、

その表現のもたらす「社会的影響」を考慮する必要があると言われており、

この差別語と差別表現の関係を正しく理解することが、極めて重要です。

 差別語とは、その言葉自体に差別性を有する単語であり、当然のこととし

て、歴史的、社会的実態を反映しているものです。一方、差別表現とは、そ

の文脈なり行動に、主観的意図の有無に関係なく「侮辱の意思」が客観的に

含まれているすべての表現行為のことをいいます。

 ここで注意したいことは、差別表現であるか否かは、差別語を使用してい

るか否かとは直接関係しないということで、差別語を使用した差別表現もあ

れば、差別語をいっさい使用していないものの、悪質な差別表現は数多く存

在するということを、私たちは認識しておかなければなりません。

 そこで、「差別語」と「差別表現」の関係の4種類に分けて、それに沿っ

て、同和問題に関連するそれぞれの例を挙げてみます。

(解放出版社事務局長の小林健治氏の分類より)




(1)差別語を使用した差別表現の場合

 「国会を特殊部落にしてはならない。」

 「芸能界は特殊部落だ。」

が典型です。『特殊部落』という語は、それ自身差別的な歴史的背景

(国が蔑視感情を付与させてつくりだした官製語)を持っている言葉

です。そして上の例文は、一言で国会が、あるいは芸能界がどういう

ものかを表わそうとして使っています。差別語を使って差別的な意図

(ダーティーなものの例えとして)を表わそうとした差別表現といえ

ます。

(2)差別語を使用していないが差別表現である場合

 「国会を被差別部落にしてはならない。」

(1)の例文で『特殊部落』という言葉を使ったために問題にされたと

理解されると、禁句言い換えで、マニュアル的に特殊部落→被差別部落

と言い換える人も出てきます。しかし、(1)と(2)の例において、表

現のもっている差別性には何ら違いはありません。

(3)差別語を使用しているが差別表現ではない場合

 「浅草弾左衛門(あさくさだんざえもん)と非人頭車善七(ひにんがしら

くるまぜんしち)との確執・争いを中心に描き、今日まで続く差別の根本に

迫る劇画・・・。」

 この文章は、解放出版社から1991年に出版された書籍『弾左衛門風雲

録』の広告コピーです。この広告を予定していた新聞社数社のうち、ある

有力な地方ブロック紙上での掲載が、3日前になって不許可になりました。

 広告代理店によると、掲載不許可の理由は、<「非人」という言葉が差

別語なので、広告掲載コードにふれる>ということでした。ところがこの

広告は「部落解放基本法制定要求全国縦断図書フェア」と銘打った企画の

一環として、書店で開催される部落問題関連の書籍フェア広告だったので

す。

 上記のコピーのどこが差別的なのでしょうか?

 確かに『穢多』『非人』『新平民』『特殊部落』など、その言葉自身に

差別性が存在しているもの、あるいは後に付与されたもの(=差別語)を(1)

の例のように侮蔑の意図を持って使用した場合は差別表現といえますが、こ

のコピーのように、「非人頭 車善七」という江戸幕府下に活躍した被差別

の民の名は、歴史上の事実として抹消することはできません。むしろ、この

広告の場合は、そのような被差別民衆の頭がその時代に果たした役割や意味

を、部落の歴史を理解する意味で知ってもらいたいという意図での出版広告

であったのです。

 しかしながら、「非人」という言葉だけを文脈全体の意味から切り離し

て問題にしたり、まして、機械的に言い換えをおこなうなど、“禁句”

”用語”へのタブー意識にとらわれている方がまだおられるようです。

 また、歴史的文献や解放運動の活動家が自己のうけた厳しい被差別体験

を語る場合にも、当然、差別語が使われるときがあります。

 「わしら部落の人間は、工ッ夕といわれて差別されてきた…。」

 同じようにこの場合も差別表現とはいえません。要は、その言葉なり表

現が使われる必然性が、文脈なり作品にあるかどうかです。

(4)差別表現ではないが差別語の使用方法に問題がある場合

「<特殊部落>の子どもとその他の子どもとの間にある差別感をどう取り除

くか」

 この例は、1958(昭和33)年に刊行されたある小説の一文です。教育研究集

会に取材に行った某作家が、『「<特殊部落>の子どもとその他の子どもとの

間にある差別感をどう取り除くか」という分科会は非常に熱気に満ちていい会

だった。』という表現の中で出てきた文章です。これは差別表現ではありませ

ん。しかし、この文章に出てくる差別語は、今日では本来、被差別部落と書か

れるべきです。作者は、この語が差別語であるかどうかも知らず、この語のも

つ歴史的・社会的背景への認識をもち得ないまま、誤って差別語を使用してい

ます。この文脈の意図を生かすには「被差別部落」としたほうがいいでしょう。

作者がすでに亡くなっている場合には、この語のもつ歴史的・社会的背景への

説明が注釈というかたちで必要でしょう。

 部落差別に限らず、女性差別、障害者差別などあらゆる差別問題との係わ

りの中でも、私たちの使う言葉は、私たちの心の中にある人権感覚と密接に

結びついています。それは、明らかに差別的意味を込めて使う場合は論外と

して、私たちはその言葉が差別的意味合いを含んでいるか否かをあまり考え

ないで、無神経に使っている場合がよくあるからです。それがなぜ差別語で

あるかの理由を明らかにしないまま、「禁句・言い換え集」を安易に作って、

それさえ使っていれば『心配はない』といったように、差別問題の本質的理

解を避けることを、私たちは改めねばなりません。

 私たち一人ひとりが自分自身の問題として、なぜその言葉が差別語なのか

の理由を正しく認識し、受け手の気持ちになって意識改革を行なうこと。こ

れによって「差別的な表現だから使わないようにする。というのではなく、使

えない自分に変わっていくことが大事なこと」と変容することが大切であり、

差別語や差別表現の解消は、人間は尊敬しあうものという精神の確立に加え

『人権を侵す表現の自由はない』ことを、改めて肝に命じる必要があるのでは

ないでしょうか。




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